2021.8.13心のマナ

 

『イエスは起き上がって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。』マルコ4:39

各地で大雨が続いています。今日も何十年に一度の豪雨になる地域があるようで、最大級の警戒が呼びかけられています。神様のお守りがありますように心からお祈りしています。

 

イエス様は、自然界に対して確かな権威を持っておられます。激しい暴風であっても、「静まれ、黙れ」と一括すると大なぎになるのです。弟子たちは、イエス様の権威と力について十分には理解していませんでした。嵐の中で慌てふためき、死の恐怖に怯えます。そして、寝ているイエス様に対して苛立つのです。

 

この時、静められたのは暴風と荒波だけではなかったと思います。弟子たちの心の内に起こっていた不安と恐れという嵐も静められたのです。「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」(マルコ4:41)と彼らは互いに言い合いながらも心の内に広がる安堵と平和を味わっていたことでしょう。

 

私たちの心は些細なことで平安を失います。不安や恐れによって心が波立ってしまうのです。苛立ちと怒りによって荒れ狂うのです。しかし、イエス様を心にお迎えして宿すならば、どんなに荒れた心も穏やかに静められるのです。

 

エレン・ホワイトはこう記しています。「どんなに嵐が激しくても、イエスに向かって『主よ、助けて下さい』との叫びをあげる者には救いがある。」(各時代の希望 中巻  p61

 

イエス様が、今、直面している試練や困難の嵐を静めて下さいますように、また、些細な事で波立つ私たちの心も静めて下さいますように。そして、主にある安息と平和に招き入れて下さいますように。

 

安息日の癒しと祝福を祈ります。

西日本教区 稲田 勤

 

 


2021.8.9「心のマナ」

 

 『だから今、それをやりとげなさい。あなたがたが心から願っているように、持って

いるところに応じて、それをやりとげなさい。』コリント第二8:11

 

台風が各地を通過するようです。災害が発生しないように、また、被害が出ないよう

にお祈りを致します。

 

 現在、生き生き弟子講座を自ら体験して週三つの聖句を暗唱することに挑戦していま

す。年齢的に記憶力の低下が既に始まっていると思いますが、それに抗うように懸命

に聖句を覚えています。

 

 

今朝の聖句は今、暗唱中の聖句です。「それをやりとげなさい」と二回繰り返されて

います。何かを始めることは大変なことです。しかし、もっと難しいのはそれを継続

してやりとげることです。オリンピックに出場した選手のコメントを聞いています

と、結果に関わらず、辛く苦しい練習を耐え忍び、そして、本番でも力を出し尽くし

て「やりとげた」達成感を語っている人が多くおられました。

 

 

そのために大切なのは「今」なのでしょう。「明日やろう」、「また今度」と先延ば

しにしてしまう誘惑が常にあります。夏休み中、宿題に手を付けずに最後の数日で必

死に終わらせた苦い過去を思い出します。何事も最善の機会は思いが与えられた

「今」なのでしょう。

 

 

今期の今日の光に次のような言葉がありました。「一日は一日にすぎない。このこと

について考えなさい。一日が私のものである。私はこの一日に自分の最善を尽くそ

う。」(「天上で」88日 エレン・ホワイト)今日しかない。明日は無いかもしれ

ない。そう思えば、「今日」もっと大切にするでしょうし、もっと真剣に生きること

ができるでしょう。

 

 私たちには、誰かの祝福のために、また、助けとなるために神様から多くのもが与え

られています。その「持っているところに応じて」、今日、最善を尽くす一日を過ご

したいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ***2021.7.12

 

『それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。』ルカ6:48

 

皆様、お変わりありませんか。配信が滞ってしまい申し訳ありませんでした。

 

日本列島各地で豪雨が続いています。静岡県熱海市では土石流による大きな災害が起こりました。今なお18名の方々の行方が分からずにいます。家族、家屋、財産を失って途方にくれている方々、また、今、懸命に捜索活動をしておられる方々のために祈りたいと思います。

 

人生にも激流が押し寄せる時があります。思いもしない試練や困難が訪れるのです。そのような時、しっかりとした土台を築いていなければ、簡単に押し流されてしまうことでしょう。自分自身の人生の土台を今一度点検したいと思います。それは、試練の嵐に耐えうるものでしょうか?

 

激流にも流されずに立ち続ける岩の上に土台をすえた家は、「私(イエス・キリスト)の言葉を聞いて行う者」(ルカ6:47)だと言われています。神様のみ言葉の約束を信仰をもって握り、その教えに従って生きる者は、確かな人生の土台を築いているのです。

 

それでも、私たちは倒れる時があります。倒れても良いのです。イエス・キリストという決して崩れず、流されない土台の上にいるならば倒れても安心なのです。次の約束は真実です。

 

「たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助け支えられるからである。」(詩篇37:34

 

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 2021.6.18

 

『主よ、なにゆえ遠く離れて立たれるのですか。なにゆえ悩みの時に身を隠されるのですか。』詩篇10:1

神様が遠く感じる時があります。祈っても、祈ってもなかば無視されているかのように何の応答も無くて虚しくなる時があります。そのような時、神様に見捨てられた、忘れ去られたと感じて悲しくなります。なぜ?と憤りたくなります。

 

神様は本当に遠く離れてしまったのでしょうか。神様は本当に私たちの祈り、嘆き、叫びを聞き流したり、耳をふさいで聞かれないことがあるのでしょうか。

 

ある書物にこのようなことが書かれていました。「相談がある」と教会を訪れた人を牧師が迎えたのです。しかし、その人は何も語らないのです。牧師は沈黙に耐え兼ねて何度も口を開く誘惑にかられました。しかし、じっと忍耐して、その人の心の思いを聴く気持ちを失わないように祈りつつ待ち続けたのです。

 

二時間が過ぎました。その時、その方は顔を上げ、牧師を見つめて微笑み、「僕の心をずと聞き続けて下さってありがとうございます。おかげですっかり気持ちが落ち着きました」と言って帰っていったそうです。

 

牧師は語る機会が多くあります。そして、実際に語ることを多くしてしまいがちです。しかし、語る以上に聞くことが重要なのです。相手の心を聴くのです。このことをいつも思い出すように心がけています。

 

そして思うのです。神様は決して遠くにいるわけではない。イエス様は約束通りいつも傍らにおられる。また、決して私たちの祈りを退けているのではない。じっと聞いて下さっているのだ。自分でも気が付かない、本当の自分の心を、奥深くに沈殿している思いを聴いて下さっているのだ、と。

 

「神は、しいたげられている者の叫びを聞くために、み座から身をかがめておられる。真心からの祈りの一つ一つに対して、『私はここにいる』と、神はお答えになる。」(各時代の希望 中巻 p9091

 

安息日を迎えます。主にある平和が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ***21-6-7

『ご自身の御子をさえ惜しまないで、私たちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。』ローマ8:32

初夏と言うよりは、本格的な夏が来たような暑さです。30度を超えている所もあるようですが、皆様、元気にしておられるでしょうか。思うように外出できない中でこの暑さですから、欲求不満とストレスはたまる一方かもしれません。不眠や頭痛、食欲不振や感情の起伏などの症状があると要注意のようです。歌うことがいいみたいですから、讃美歌を歌うといいかもしれません。

 

冒頭のあいさつが長くなってしまいました。聖書が証言する神様がいかに私たちのことを心にかけて下さっているのかを思う時、心がじわりあったかくなり、自然に元気が出て来ないでしょうか。神様は私たちを救うためにひとり子であるイエス様を与えて下さいました。ある意味、わが子を犠牲にすることは、わが身を差し出すことより辛く苦しいのではと思います。愛がなければ決してできない事です。

 

ですから、聖書は、「どうして、御子のみならず万物を賜らないことがあろうか」と語るです。神様にとっては、私たちが幸福に暮らすこと、また、私たちを祝福することこそが望みであり、喜びなのです。人間の親でさえ我が子の幸福のために出来る限りのことをしようとします。まして神様が祝福を出し惜しみしたり、控えたりすることはないのです。

 

今日の聖句の直前には、「神が私たちの見方であるなら、だれが私たちに適し得ようか」とあります。全知全能の愛の神様が味方なのです。確かにサタンは隙あらば私たちを貶め不幸にしようと働いています。しかし、神様が味方ですから恐れる必要はありません。そして、その神様はいつも私たちに対して最善をなして下さるのです。

 

今週も主の恵みを数えつつ感謝の気持ちをもって歩ませていただきたいものです。主にある平和がありますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-5-25

明日のこと思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』マタイ6:24

皆様、お変わりありませんか?暫く配信ができずにいました。申し訳ありません。

 

コロナ禍で今までとは違う苦労が増えたと感じている方もおられるのではないでしょうか。イエス様は、「明日のことを思い煩うな。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われました。何だか分かるようで分からない言葉です。

 

もともとのギリシャ語では、「もう十分、一日にはその日一日の苦労があれば」となるようです。一日の中にはいい事ばかりではなく、嫌な事も起こります。実際、「労苦」には「悪いこと」という意味もあるようです。悪いこと、嫌なこと、辛いことがある。でも、それはその日が終わると同時におしまいとする、という生き方を言っているのでしょう。

 

確かに、考えてみると、私たちは昨日のことを引きずって、明日のことも引き込んで今日という日を生きているところがあります。一日なのに昨日と明日の二日を盛り込んで一日で三日分を生きようとしているのです。無理な話です。

 

全能の愛の神様に生かされている者として、私たちはもっと神様を信頼して委ねて生きることを学びたいと思います。昨日と変わらない労苦が今日もあるかもしれない。しかし、今日のことは今日だけのこととして主にゆだねつつ引き受けていけば良いのです。万事は主のご支配のうちにあるのですから・・。

 

苦労の多い日々が主の力強い御手によって支えられますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-5-14

『シモンは答えて言った、「先生、私は夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」』ルカ5:5

皆様、お変わりありませんか?配信がしばらく滞ってしまい申し訳ありませんでした。

 

今週もアタフタとしているうちに金曜日を迎えました。忙しくアレコレしているけれど、今週、自分はどのような実りを得ることができたのだろうか、ふと考えてしまう自分がいます。

 

やればやるだけのことは必ずあるはずだ、そう信じて私たちは生きているのではないでしょうか。しかし、そうではないこともあるのが現実です。あんなに頑張ったのに、こんなに頑張っているのに、「何もない」という結果となると、そこで感じる空しさはとてもつなく大きなものになるのです。

 

徹夜で働いたのに小魚な一匹とれずに迎えた朝、シモンたちはどれほどの疲労と落胆を感じたことでしょう。自分の労苦が徒労に終わることに耐えられる人はいないでしょう。とても「もう一度」という気持ちにはなれません。

 

ところが、シモンはもう一度、網を投げる決心をしたのです。その力はどこから来たのでしょう。「お言葉ですから」とありますから、主イエス様の言葉です。神様の言葉がシモンを新たな挑戦に向かわせたのです。

 

一日の終わりに、一週間の終わりに、私たちは疲労と空しさを感じるかもしれません。「何も取れなかった」という言葉を溜息と共につぶやくかもしれません。しかし、あなたの労苦が、流した汗が無駄になることは決してないのです。今は、へたりこんだ自分をもう一度立ち上がらせる力は無いかもしれません。しかし、主のお言葉によってその力を頂けるのです。

 

迎える安息日、その主のお言葉を頂きたいと思います。もう一度立ち上がって、戦いの日常に出ていく力を得る神様のお言葉を頂きたいと思います。主は約束して下さっています。「あなたがたの労苦が無駄になることはない」(コリント第一15:58)と。

 

一週間、お疲れ様でした。皆様の上に主の労いがありますように祈ります。そして、安息日の平和と祝福に豊かに満たされますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-5-3

『明日のことを誇ってはならない。一日のうちに何が起こるかを知ることができないからだ。』箴言27:1

「明日やろう」。私たちがすべき事を先延ばしにする時によく出て来る口実です。しかし、その「明日」が訪れる保証はどこにもありません。それに、「明日」に先送りする人は、次の日も同じ理由でやらない場合が多いのではないでしょうか。(自分のことです・・・。)

 

神様に生かされている私たちにとって、最も大事な時は「今」です。今日と言う日に最善を尽くすことが将来(未来)を創るのです。キリスト者として、今日という日、今という時を最善に生きる習慣を築いていきたいものです。

 

「われわれの大切な任務は、遠くにあるぼんやりしたものを見ることではない。はっきりと手近にあるものを実行することである。」イギリスの歴史家トーマス・カーライルの言葉です。どんなに大きな立派な夢を抱いても、「今」、精一杯努力しない人は決して夢を実現することはないでしょう。

 

聖書にも、「すべてあなたの手のなしうる事は、力を尽くしてなせ」(伝道の書9:10)とあります。仕事でも、家事でも、勉強でも、今、目の前にあることを心を込めて行ないたいと思います。

 

皆様の休日が祝福されますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21.4.26

『愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。』コリント第一13:47

皆様、お変わりありませんか?ゴールデンウイークを迎えますが、今年もコロナ禍でステイホーム週間になるのでしょうね。

お休みを取れる方、仕事で休めない方それぞれだと思いますが、日々の主のお守りをお祈り致します。

 

さて、今日のみ言葉は愛の章と言われるコリント第一13章から取りました。ここを読む度に思うことは自分の愛の足りなさです。夫として、父親として、そして、牧師として愛が欠如しているゆえに相手を傷つけているのかと思うと情けない思いになります。

 

でも、そんな自分をゆるし、あるがままに愛して下さる神様がおられることで大いに励まされるのです。「愛は寛容であり」とあります。「寛容」は、もともとの言葉には「長く辛抱する、長く容赦する」という意味があるようです。ある人は、「愛は袋のようなもの」と解説しています。

 

型がある入れ物は、どこかで変容を強いられることになります。しかし、袋はそのままの形で受け入れるのです。神様の愛はまさにそのようなものです。自分に合わせるように相手に変容を強いるのではなく、あるがままの姿で受け入れてくれるのです。その愛の「寛容」の中ではじめて私たちは変えられていくのでしょう。

 

神様、どうか私の心にこの愛を与えて下さい。そう祈って一日をはじめたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-4-19

『そこで、もし私をあなたの信仰の友と思ってくれるなら、私同様に彼を受け入れてほしい。もし、彼があなたに不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それを私の借りにしておいてほしい。』ピレモン1718

直筆の便りを受け取り、久しぶりにメールではない文字を読んで新鮮な感動を覚えたという文章を読みました。確かに、自らの手で文字を書く機会が減ってきているように思います。そのような時代だからこそ、手書きの文字に味わいとあたたかみを

よりいっそう感じるのかもしれません。

 

今日のみ言葉はパウロが直筆で送ったメッセージだと思われます。どこからとこまでがそうなのかは定かではありません。ただ、今朝のみ言葉の直後に、「このパウロが手ずからしるす」とあります。そして、「私がそれを返済する」と約束しているのです。

 

パウロは目が悪かったので、彼の手紙はパウロが口述したことを誰かが代筆するかたちで書かれたと言われています。しかし、この部分は自ら筆を執って書いたのです。目を凝らして、一文字一文字心を込めて書いたのです。

 

その内容は、自分が導いたオネシモをかつて彼の主人であったピレモンにとりなすことでした。パウロは、「私同様に彼を受け入れてほしい」と訴えています。ピレモンは、パウロの直筆の訴えをどのような思いで読んだでしょうか。

 

イエス様は、私たちを父なる神様にとりなして下さっています。「お父様、この方を私だと思って受け入れて下さい。彼/彼女の負債(罪)は私が支払います。」実際、イエス様は十字架の死をもって全ての負債(罪)を支払って下さったのです。

 

聖書は人によって書かれました。しかし、神様の霊に導きの下で書かれたのです。現在、手にしている聖書の文字は印刷されたものです。でも、その一語一文には、手書き以上のイエス様の愛と思いが込められているのです。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-4-9

『この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。』ヘブル4:15

皆様、お変わりありませんか?なかなか配信できずに申し訳なく思っています。ようやくスギ花粉の季節の過ぎ去って症状が緩和して来ました。

 

この時期になると、渡辺和子氏がエッセイの中に記している、花粉症で鼻がつまり、夜中まで眠れなかったことを話す同僚に、「薬を飲まなかったのか」と答えて後で深く反省したという話を思い出します。なぜ、「辛かったでしょう」と言ってあげられなかったのかと悔やんだと言うのです。

 

私もまだ牧師として駆け出しの頃、教会を尋ねて来た若者の悩みを聞いて、懸命にアドバイスをしたのですが、「僕が聞きたいのはそうことではない」と言われてハッとしたことがありました。きっと、何より「大変だね。苦しいね」と気持ちに寄り添ってほしかったのだと思います。

 

私たちが必要としているのは正しい答えではなく、「共感」である場合が少なくありません。しかし、これがなかなか難しいのです。

 

イエス様は、私たちの「弱さ」を思いやり、「痛み」に共感して下さる救い主です。神様でありながら私たちと同じ肉体を取られて人間として生きられたからです。そして、私たちと同じように、いや、私たち以上に深い悩みと大きな痛みを経験されたのです。だから、イエス様はどのような時にも、私たちの弱さを思いやり、「時機を得た助け」(ヘブル4:16)を与えることができるのです。

 

安息日を迎えます。主にある平和と祝福が豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-3-29

『主よ、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの嘆きに、み心をとめてください。・・・主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。』詩篇5:1,3

気が付けば三月ももう終わり。今週中に四月を迎えます。時の流れの早さを感じます。一瞬一瞬が二度と取り戻すことのできない時間として過ぎ去っていることを思います。もっと「今」を心を込めて生きよう。朝の祈りの時に与えられた思いです。

 

朝、目覚めた時、まず何をするでしょうか。多くの人が朝、まず手にして見るのがスマホだと言います。私もつい枕元で充電していたスマホを手に取ってメールのチェックなどをしてしまうことがあります。

 

神様は、朝のひと時、まずご自分のもとに来るようにと招いておられます。「朝ごとに」、神様との対話である祈りとみ言葉で一日を始めることは、私たちが祝福と力を得る秘訣なのです。

 

神様は、私たちの感謝と喜びだけでなく、嘆きや心配、愚痴や願いにも耳を傾けて下さいます。そして、聖書の言葉を通して個人的に語りかけて下さるのです。そこで、不思議にも私たち雑多な思いが整えられていくのです。

 

エレン・ホワイトは、毎朝、次のように祈ることを勧めています。「主よ、しもべをあなたのものとしてお受入れ下さい。私のすべての計画をあなたのみ前に置きます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どか私と共にいて、すべてのことをあなたにあってなさせてください。」

 

実践してみて下さい。神様が共におられること。神様のお守りとお導きがあることを今まで以上に感じることができるようになることでしょう。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-3-26

『また、なぜ着物のことで思い煩うのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。」マタイ6:2829

今年は例年より桜の開花が早かったのでしょうか。気が付いたら教区事務所前の大川沿いの桜並木が見ごろを迎えていました。昨年に引き続きコロナ禍での春の到来です。それだけに、桜の美しさが変わることのない神様の恵みを力強く証しているように感じます。

 

桜を眺めていて、今朝のイエス様の言葉が思い浮かびました。そして、自分が日常の中でどれだけ思い煩いながら生きているかに気づかされました。心を重く暗くすることはいっぱいあります。しかし、思い煩うこと、心配することは私たちがすべきことではないのです。

 

心配は神様がして下さることで、私たちがすべきことは、私たちのことを心にかけて最善をなして下さる神様を信頼することなのです。野の花はそのことを教えてくれているのです。

 

草木は自分の必要を得るために自分でできることは何もありません。日光が差し込み、雨によって地が潤うのを待つことしかできません。美しい桜のを見つめていると、その背後に憐れみ深く全ての生けるものの必要を満たして下さる神様が見えてくるのです。

 

安息日を迎えます。静まって神様の恵みを受けたいと思います。み言葉によって再創造される喜びを味わいたいと思います。一週間、お疲れ様でした。安息日の祝福と平和が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-3-18

『あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新たにし、祭りの日のようにあなたのために喜び呼ばわられる。』ゼバニヤ3:17

皆様、お変わりありませんか?慌ただしい日々の中で配信ができずにおりましたことをお許し下さい。いつのまにか三月の中旬になってしまいました。間もなく桜便りが届く季節となります。相変わらずのコロナ禍の中ですが、春の訪れを喜び、楽しみたいと思います。

 

さて、今日のみ言葉には励ましのメッセージが詰まっています。勇士である神様が私たちのうちにおられて勝利を与えて下さるとあります。神様は全能です。そのお方が味方として私たちと共におられるのです。こんなに心強いことはありません。

 

また、神様は、私たちの存在を喜んで下さるお方だと書かれています。愛すると言うことは、その人の存在が自分にとって喜びである、と言うことです。神様にとって、私たちはまさにそのような存在なのです。神様はそれほどまでに私たちを愛しておられるのです。

 

「その愛によってあなたを新たにし」とあります。別の訳では、「その愛によって安らぎを与える」となっています。自分の弱さ、醜さに心落ち込む時に、それでもあるがままに愛して下さる神様に愛によって私たちは自らを取り戻すことができます。安心できるのです。

 

安息日はまさにそのような日だと思います。神様に愛され、赦されていることを確認して安心するのです。そして、互いの存在を喜び合うのです。明日の安息日がまさに祭りの日のような喜びの日となりますように!

 

安息日の祝福と平和を心よりお祈り致します。

西日本教区 稲田 勤

 

 


***心のマナ*** 21.3.8

『正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。』詩篇92:12

イスラエルの地を訪れた時、郊外の砂漠地帯にナツメヤシが茂っている光景を見ました。このような場所でも枯れることなく育っているということは、地中の根をしっかりのばして水分を確保しているのだろうと想像しました。

 

人間の真価もどこに根差しているかによって決まると言えるでしょう。地中の根は見えない部分です。この見えない部分こそが大事なのです。そこから得るものによって人は育まれるのです。

 

レバノン杉も強い根を地中深くまでのばすそうです。強い支えを求めて、深く深く根を張っていくのです。ですから、激しい嵐の突風にさらされても、レバノン杉は地中深くに張り巡らせた根に支えられて、しっかりと立ち続けることができるのです。

 

私たちはどこに根差しているでしょうか。聖書は、イエス様に根差し、イエス様にあって歩くように教えています。(コロサイ2:67)そのためには、聖書のみ言葉を学び、受け入れ、従う必要があります。それが「正しい者」の姿なのです。

 

「正しい者」は根をしっかり張っていますので、人生の嵐の時にも倒れることなく立ち続けるのです。それは、その人の強さによるのではなく、イエス様の根差しているがゆえの強さなのです。

 

今週も神様に支えられて一日一日を大事に過ごしたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ***21.3.1

『あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするが、わたしたちは、朽ちない冠を得るためにそうするのである。』コリント第一9:2425

今回が最後の開催となるびわ湖マラソンで、鈴木健吾選手が自己最高、日本新記録の2時間429秒で優勝しました。42.195キロを走るマラソン競技は過酷な自己との戦いであると思います。日々の不断の努力と節制、また練習がなければとても走り抜くことはできないでしょう。

 

競技者にとって、沿道の声援は力になると思います。しかし、現在のコロナ禍でスタジアムは無観客、沿道での応援も自粛が要請される寂しい状況でした。選手たちにとっては孤独な戦いだったと思います。その中で日本新記録を出した鈴木選手の精神力には驚きを感じます。

 

クリスチャンの生涯もマラソン競技に似ていると思います。天国というゴールに至るまで、私たちは自分に与えられた人生の行程を走り続けなければなりません。しかし、私たちは孤独ではありません。確かな伴走者がいます。イエス様です。「信仰の創始者であり完成者であるイエス」(ヘブル12:2)様が先導して下さるのです。

 

私たちには順位を争っているわけではありません。速さも記録も関係ありません。大切なことは完走すると言うことです。立ち止まってもいい、休んでもいい。ただ、棄権だけはしないのです。最後まで、ゴールまで何としてでも到達したいのです。

 

その秘訣はイエス様から目を離さないことです。神様の声援、アドバイス、応援歌である聖書のみ言葉に耳を傾けることです。そうすれば力を頂くことができます。

 

苦しい時、辛い時があります。山あり、谷ありです。しかし、いつもイエス様の助けと導きがあります。神様が与えて下さる「朽ちない冠」を受けるために、今日もこれからも主を仰いで己が道を走り抜きたいと思います。

 

頑張れ!挫けないで!主が共におられます!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21.2.26

『静まって、わたしこそ神であることを知れ。』詩篇46:10

メソジスト運動を起こしたジョン・ウエスレーをご存知だと思います。彼の母はスザンナといいます。彼女にはジョンを含めて19人の子どもがいました。彼女の時代は現代のような便利な時代ではありません。冷蔵庫、洗濯機、掃除機などはありませんでした。

 

毎日の家事と育児がどれだけ大変だったか・・・。食事を作り、手洗いで洗濯をします。加えて子どもたちに勉強も教えました。想像を超えた忙しさだったことでしょう。彼女は戦争のような毎日の生活の中で、午後一時から二時までの一時間は何をしていても働きの手を止めて寝室に一人こもって祈っていたと言います。

 

彼女は、神様の前に静まり、祈って聖書を開いてみ言葉に耳を傾けたのでした。この時間こそが彼女の力の源泉だったのです。そして、その祈りの中からウエスレーのような人物が育っていったのです。

 

私たちも多忙な毎日を過ごしています。時間に追われるような日々です。でも、だからこそ神様の前に静まる時間が必要なのです。イエス様は、「私から離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)と言われました。このイエス様の言葉の意味を知る必要があります。

 

神様の前に一人静まる時間を確保しましょう。聖書を開いたら、日常の喧騒の中で聞き逃している神様のみ声が聞こえてきます。その言葉によって私たちは生きるのです。

 

安息日を迎えます。主の平和と祝福が豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21.2.22

『だから、明日のことは思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』マタイ6:34

20日の安息日に大阪府内の教会に行きました。緊急事態宣言下ですが、駅の構内にいる人は少なくありませんでした。ただ、電車内の人はまばらでした。斜め前に母子が座っていました。母親に抱かれたその子の安心しきった表情がとても印象に残りました。

 

赤ちゃんは明日のことを心配しないでしょう。しかし、人間は成長するにしたがって明日のことを心配するようになります。明日のことを心配しないで生きることができたらどんなに楽だろうかと思う時があります。悲しいかな信仰を持ってもこの心配性から解放されていないのです。

 

主の祈りの中に、「我らの日曜の糧を今日も与えたまえ」との一節があります。この祈りは、「今日」の必要を祈り求めています。昨日、食べ損ねたパンのことで愚痴っているのでも、明日、食べるパンを心配しているのでもありません。今日のパンを祈り求めているのです。

 

「この主の祈りは、昨日を忘れ、明日を思い煩わず、一度に一日だけを生きることを教えています。多くの人が昨日を悔やみ、明日を心配し、今日を恐れて、一度に三日分を生きようとするので行きづまるのです。今日は、昨日あなたが思い煩った明日なのです。」(人生百話第三集p191

 

確かにそうだよなーと思います。もっと神様を信頼して、生かされている「今日」に集中したいと思います。「神は一度に一日だけを生きるように私たちに求められる。あなたは一週間先、一か月先を見る必要はない。今日、あなたの最善を尽くしなさい。」(今日の光「天上で一巻221日)

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21.2.16

『ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、主に祈って言った、「・・・主よ、耳を傾けて聞いて下さい。主よ、目を開いて見て下さい。」』イザヤ37:1417

皆様、お変わりありませんか。配信が滞ってしまい申し訳ありません。皆様がいつも神様に守られて心も体も健やかに元気であるようにと祈っています。

 

さて、今、聖書研究ガイドでイザヤ書を学んでいますが、先週の学びはとても大切な学びだったと思います。ヒゼキヤは残忍なアッシリアの王の使者からの手紙を受け取ります。それは宣戦布告であり、必ず滅ぼすとの宣言でありました。

 

危機の時、試練の時、私たちはどうするでしょうか。頼れる人を探して相談するでしょうか。そうする場合が多いかもしれません。その際、最も信頼できる確かな相談相手は誰でしょうか。それは、人間ではなく神様です。

 

ヒゼキヤは、その手紙をもって主の宮にのぼり、それを広げて祈りました。神様の助けを祈り求めたのです。危機においてこれ以上の対策はありません。ヒゼキヤの心からの祈りは聞かれ、主が働いてユダ王国は守られるのです。

 

私達は誰よりもまずイエス様のもとに行くべきです。イエス様こそが唯一確か相談相手なのです。イエス様にとって大きすぎる問題はありません。また、同時に小さすぎる問題もないのです。どんな事でも相談して助けと導きを祈り求めて良いのです。そうすべきなのです。

 

私が好きなエレン・ホワイトの言葉をご紹介いたします。「神は、しいたげられている者の叫びを聞くために、み座から身をかがめておられる。真心かの祈りの一つ一つに対して、『私はここにいる』と、神はお答えになる。」各時代の希望中巻p9091

 

いつでも、どこでも、どのような状況でも祈ることができます。「神様」と呼び掛けて何でも打ち明けましょう。相談しましょう。知恵と力と導きを祈り求めましょう。主は必ず応えて下さいます。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21.2.10

『また、神の力強い活動によって働く力が、私たち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。』エペソ1:19

最近、読んでいる本に、佐藤優氏の「見抜く力」があります。現代社会を生き抜くのに必要なものの一つが「見抜く力」だと言うのです。特に、情報過多のこの時代にあって、雑音や偽りを見分けて真実で確かな情報だけを得ていく力は必須だと言います。

 

信仰の世界においても同じことが言えます。偽りの力であるサタンは巧妙に働いています。人間の目を曇らせて、見るべきものを見させないようにしているのです。

 

パウロの祈りの言葉を心にとめて自らの祈りにしたいものです。彼は、神様が心の目を明らかにして下さって、神様を認めることができるように、神様にあって抱いている望みがいかに大きいかが分かるように、そして、神様の働きがいかに力強いものであるかが分かるように(エペソ1:1719)、と祈っています。

 

コロナ禍が続いています。教会の活動はなかば休止状態です。でも、神様は働き続けています。それも力強く働き続けて下さっています。

 

私たちの日常においてもしかりです。問題や悩みを抱えて思い悩むことがあります。どうしようと心沈む時があります。その時、自分の無力さを感じます。しかし、神様は働かれます。信じる者の祈りに応えて働かれます。全能の力で働かれます。神様に不可能はありません。

 

今日、生きて働かれる神様を見抜く信仰の眼が与えられますように。そして、神様にあって確かな望みに生きることができるように祈りたいと思います。

西日本教区 稲田 勤

 

 


***心のマナ***21.2.5

『木には望みがある。たとい切られてもまた芽を出し、その若枝は絶えることがない。』ヨブ14:7

二年前だったと思います。台風の被害で目の前にある大可沿いの木々がなぎ倒されました。その後、ダメージを受けた枝葉が切り落とされてしまいました。すっきり視界が広がりましたが、何となく寂しい感じがしました。

 

ところが、先日、久しぶりに大可沿いを歩いた時、新たな芽が出てこの二年の間に大きくなっていることに気が付きました。

木が持つ命の再生力に驚かされます。切られてもまた新たな芽が育つのです。

 

人間も同じだと思います。主にあって再創造される可能性があるのです。私たち一人ひとりに対して、神様は常に望みをもって心にかけて下さっているのです。

 

私たちの再生の芽がなくならないように、神様に枝葉を切られる痛い経験をしなければならない時があるかもしれません。しかし、それも神様の憐れみのゆえなのです。

 

イエス様の恵みによって再生しない人はいません。だれもがキリストにあって新しい人になるのです。「ひとりびとりの人間の中に、キリストは無限の可能性をみとめられた。」(エレン・ホワイト)私はこの言葉に励まされています。

 

そして、親として、牧師として、いつもこのキリストの眼差しを持ちたいと祈っています。一人一人の中にある無限の可能性を認める眼差しです。

 

安息日は再創造の日です。キリストにあって新しくされるのです。皆がその恵みに預かれるように祈ります。安息日の祝福と平和が豊かにと訪れますように!

西日本教区 稲田 勤

 

 


***心のマナ***21.2.1

『私は平安をあなたがたに残して行く。私の平安をあなたがたに与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。』ヨハネ14:27

ここでイエス様が言っている「平安」は「平和」とも訳せる言葉です。この世が与える平和、この世が求める平和とはどのようなものでしょうか。

 

この世が求める平和は、戦争や内戦がなく、災害がなく、コロナ禍もない世界だと思います。そうなれば嬉しいですが、それは望んでも手に入れることができないものです。

 

イエス様が誕生し、活躍した時代、ユダヤの国をはじめ世界を支配していのはローマ帝国でした。ローマの統治は長期にわたります。その時代のことをパックス・ロマーナ【ローマによる平和】と言います。

 

確かに戦争はありませんでした。しかし、それは圧倒的なローマの軍事力によってだれも抵抗・反抗ができなかっただけです。心のうちには憎しみや妬みが煮えたぎっていました。

 

この世が求める平和とイエス様が与える平和はまったく異なるものです。イエス様が与えて下さる平和とは、神様との関係における平和です。罪によって神様と敵対関係にある人間が、イエス様の十字架によってその敵意が取り去られて和解へと導かれることです。

 

全ての人間が必要としているのはこのキリストによる平和です。神様との間に平和を持つものは決して不幸になることはありません。それは、災いや試練がなくなるということではありません。たとえ人生の嵐を経験したとしても、心の内に決して奪われることも、失うこともない平和・平安を持つことができるということです。

 

今日、このキリストの平和があなたの心の内に訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21.1.29

『私の神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。』ピリピ4:19

年が明けたと思ったら、もう一月が終わろうとしています。コロナのこと、家庭のこと、教会のこと、毎日、これでもかと言うくらいに心配事が起こります。全部自分で抱えていたら押しつぶされてしまいます。

 

「あなたの荷を主にゆだねよ」(詩篇55:22)とありますが、私たちの重荷を引き受けて下さる神様がいることは心強く、また、安心を与えてくれます。一人で抱え込まないで、祈りを通して重荷は主に委ねたいと思います。

 

神様のもとには、どのような必要にも応えることができる備えがあるのです。神様は、私たちの欠乏や必要をご存知です。そして、神様は、私たちの物心両面の必要を満たすために無限大の補給庫を持っておられます。その扉は祈りによって大きく開かれるのです。

 

神様を信頼して、自分が必要とする助けを祈り求めたいと思います。エレン・ホワイトはこう記しています。「神に取り除くことのできない重荷はなく、神に追い払うことのできない闇はない。神が力に変えることのできない弱さはなく、神に鎮めることのできない恐れはない。」(R&H1980114日)

 

安息日を迎えます。一週間、お疲れ様でした。全ての重荷を主に委ねて安息日の平安の中に憩いたいと思います。

主の祝福と平和が豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21.1.27

 『神よ、私をあわれんで下さい。・・・私の魂はあなたに寄り頼みます。滅びの嵐の過ぎ去るまでは、あなたの翼の陰を私の避け所とします。』詩篇57:1

今朝の教区事務所の朝礼拝で与えられたみ言葉です。いついかなる時にも助けを求めてすがることができる神様がいることは大きな支えです。

 

台湾時代を思い出します。毎年のように台風の襲来がありました。その後、停電、断水となることも多くて、我が家には大きな水を貯めておく瓶がありました。台風が来るとなると、その瓶に水をため、缶詰などの非常食とろうそくを用意して、暴風が過ぎ去るのを待つのです。

 

窓外を眺めると、嵐の激しさが分かります。しかし、自分は家の中で親の保護のもとにある安心があるため怖いと思うことはありませんでした。いつしか眠りに落ち、朝起きたら嵐は過ぎ去っているのです。

 

試練の嵐に会う時、私たちは神様を避け所とすることができます。安心して身を寄せることができるあたたかい懐があるのです。ところが、それなのに、神様のもとにではなく、他の所に行ってしまうことがあります。

 

ユダ国の王ヒゼキヤは、アッシリアとうい獰猛な国に攻め囲まれた時、預言者イザヤによって神様に寄り頼んむように言われていたのに、エジプトの保護に頼って失敗します。私たちも神様ではなく、手近な人間を頼って失敗することがあります。

 

まず神様に頼るべきなのです。神様が私たちの避け所です。神様を信頼して身を寄せていれば、やがて嵐は過ぎ去っていきます。エレン・ホワイトの次の言葉は大きな励ましを与えてくれます。

 

「神、生ける神は変わることはない。神は今日も、昨日も、そして永遠に親切で、憐れみ深く、愛情に満ちた救い主である。」(今日の光2020919日)

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 21-1-22

『あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、・・・。』ヨハネ15:16

お変わりありませんか。勢いが弱まる気配のないコロナ禍のもといかがお過ごしでしょうか。皆様が守られ、お元気でありますようにと願っています。

 

私ごとですが、今週、自分にとっては大きな事が起こりました。現在の働きをさらに継続することになったのです。イエス様はかつて、弟子のペテロの将来を預言して、「ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」(ヨハネ21:18)と言われました。今、この言葉の意味を噛みしめています。

 

人生において自分の思いや願いとは違う方向に引っ張られていくと言うことがあります。何故でしょう。それは、人生の主は自分ではないからです。神様の選びと目的があるのです。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」と神様は言われます。

 

普通はそうは考えません。私が選んだと考えるのです。自分の人生は自分の選択の積み重ねだと・・。しかし、神様の存在を知り、神様を信じる時、自分が選んだと考えていた人生が、神様に選ばれた人生に翻るのです。

 

あなたは選ばれているのです。神様の愛のうちに選ばれているのです。神様のご計画と目的の中で大切な役割を果たすために選ばれているのです。それは、「行って実を結んで、その実がいつまでも残る」ためなのです。

 

自分の願いや意志とは違う方向に人生が押し出される時、私たちはとまどいます。抵抗しようとします。しかし、そこには神様の選びと導きがあるのです。今日も、主に選ばれて、主によって立たせて頂いていることを覚えて、おかれた場所で精一杯、誠実に生きたいと思います。

 

安息日を迎えます。一週間、お疲れ様でした。安息日の祝福と平和が豊かに訪れますように!

西日本教区 稲田 勤

 

 


***心のマナ*** 21-1-11

『ご存知のように、子どもたちはか弱く、また乳を飲ませている羊や牛を私が世話をしています。もし一日でも歩かせすぎたら群れはみな死んでしまいます。』創世記33:13

新しい年を迎えて、心機一転、新たな思いで聖書通読に励んでいます。私たちクリスチャンにとって聖書のみ言葉は無くてならない霊の糧です。食事をしなければ肉の命は弱り、死んでいきます。霊の命も同じです。神様のみ言葉を毎日、糧として受けなければ弱り果ててしまうのです。

 

今朝、通読した箇所で心にとまったところが今日のみ言葉です。ヤコブが兄エサウに言った言葉ですが、「幼い子どもや家畜の乳飲み子たちに無理をさせて一日でも歩かせすぎたら死んでしまう」とあります。心にドスンと来ました。

 

子ども達を急かしすぎていたのでないか・・・と思いました。一人ひとりに合ったペースがあるのです。お正月に駅伝を見ましたが、オーバーペースで走ると選手は最後には弱り果ててしまいます。これは人生においても真理と言えるでしょう。

 

教会においてもそうです。バプテスマを急ぎすぎてかえって魂を失ってしまうことがあります。今朝のみ言葉の後、ヤコブは、「私は・・・家畜と子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり歩いて行き・・・」と言っています。これが大切なのです。

 

子どもたちと歩調を合わせて寄り添ってあげる。それが親の務めなのでしょう。それが三育教育機関が心がけていることだと思います。(子供たちが助けられています。感謝です。)世の中は違います。追い立てて、ついて来れない者は見捨てられる・・・。そのようなところがあるように思います。これでは人は生きていけません。

 

相手のペースに合わせて寄り添うことには忍耐が必要です。すなわち「愛」が必要です。でもその「愛」があって始めて人は育てられていくのだと思います。

 

イエス様はまさにそのような「愛」を示して下さいました。イエス様はあなたの歩みのペースに合わせて、常にあなたに寄り添い続けて下さるのです。あなたを失わないために・・・。

 

西日本教区 稲田 勤


 

***心のマナ*** 21-1-4

 

『主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。』エレミヤ31:3

 

今朝、祈りの中で自分の弱さと醜さが示されました。そして、自分はどれほど神様の愛の深さ、広さ、高さ、強さを知っているだろうかと考えました。「ひとり子を与えるほどに愛して下さった」神様の愛をどれほど分かっているだろうかと。

 

 

 

祈りました。「教えて下さい。あなたがどれほど深く私を愛してくださっているかをもっと教えて下さい」と祈りました。その後、今日の光を開いて今朝の聖句を呼んだ時、心が震えました。「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」との主の応答が与えられたからです。

 

 

 

放蕩息子の父親はどれほど悲しい思いをしたことでしょう。愛する息子が自分の目も手も心も届かない遠いところへ行ってしまったのです。自分のそばにいる兄も父の思いは分からず心は遠く離れていました。でも、二人の息子に対する父の愛は変わりませんでした。

 

 

 

一日の中で、一週間の中で、私たちは何度なく放蕩息子となって神様に背を向け、心が離れてしまいます。生涯においてもそうしてしまう場合もあります。しかし、神様の愛は決して変わりません。あきらめないのです。そして、絶えず、常に真実を尽くして下さるのです。

 

 

 

この父の愛を幾分かでも家族に対して、また、友人や教会の兄弟姉妹に対して持たせて頂きたいと思いました。今日の光にはこう書かれていました。「遠く離れていた者たちは神の子らの愛の奉仕によって連れ戻される。」

 

 

 

神様から離れている実の家族、また、教会の家族のために祈り、働きたいと思います。そして、何より自分自身が放蕩息子の父の愛のように神様から愛されていることを心に留めたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 

 

 


***心のマナ***

『見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。』イザヤ43:17

新春のお慶びを申し上げます。新しい年を新たな希望を胸に迎えられたことと思います。

 

今日のみ言葉は新年を迎えるにあたって祈りうちに選ばせて頂いたものです。神様は、この年に何か素晴らしいことをなそうとしておられます。目に見える状況は変わらずに困難を極めているかもしれません。しかし、全能の主は、「荒野に道を設け、砂漠に川をながれさせる」ことがおできなのです。

 

エレン・ホワイトの言葉を紹介します。「最悪の状態と見える暗黒の時代に、神を信じなさい。神はみ旨を行い、その民のために万事がよくなさるように働かれるのである。神を愛し、神に仕える者の力は日々に新たにされる。」(ミニストリー・オブ・ヒーリングp490

 

今年がどのような年になるかは誰も分かりません。しかし、何事が起ころうとも主が共におられて、我ら一人ひとりを最善に導いて下さる約束に信頼して歩んでいきたいと思います。

 

皆様の前途を主が豊かに祝福して下さいますようにお祈り致します。

 

安息日を迎えます。今年最初の安息日です。安息日の祝福と平和が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-12-28

『どうぞ、私を畑に行かせてください。・・・・落ち穂を拾います。』ルツ22

聖書には、貧しい人や弱い立場の人に対する保護と配慮に満ちた教えがあります。例えば、収穫時には、全てを刈り尽くさず、落としたものは拾わずに貧しい人たちのために残しておくことになっていました。(レビ19:9~参照)

 

今日のみ言葉は、夫を亡くし、姑と姑の故郷に帰ったルツの言葉です。彼女は姑の親戚であるボアズの親切によって多くの落ち穂を拾うことができたのです。

 

聖書という畑には、私たちを励まし力づけてくれる多くの約束の言葉があります。私たちは自由に、何の制限も受けることなく、その尊い約束のみ言葉を自分のものにすることができるのです。

 

それゆえに、私たちは、毎日、聖書という畑に出て行って神様の約束のみ言葉という落穂を拾うべきです。そこには必ずあなたが必要としている教え、戒め、励まし、慰めがあります。

 

かつて、イスラエルの民は40年の荒野の旅において、毎朝、天から与えられたマナを集めるために出かけて行きました。そして、その日一日分を集めたのです。今日、集めたマナが、今日一日の養いとなったのです。

 

み言葉は生ものと言って良いと思います。新鮮さが大切です。過去のものではなく、今日のみ言葉が今日の私を生かしてくれるのです。

 

今日、自ら荒野に出て行って天からのマナを集めましょう。聖書と言う畑に出かけて行って、尊い神様の約束の落穂を拾いたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-12-21

『父がその子どもをあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。』詩篇103:13

私たちの持つ父親像とはどのようなイメージでしょうか。最近は、「イクメン」と言って積極的に育児に参加する男性が増えているようです。

 

しかし、かつては三語族と呼ばれ、妻に対しては「めし、ふろ、ねる」、子どもに対しては「おい、元気か、勉強しろよ」しか言わないと揶揄されて、父親に対するイメージは良くない時代がありました。

 

実の「父」の印象が悪いため、神様である「父」に対しても良いイメージが描けない人が多いことを伝道の困難さの理由とする人もいました。

 

しかし、実際の神様は「あわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊か」(詩篇1038)なお方です。そして、その「父」なる神様を身を持って示したのがイエス様でした。

 

福音書に記録されたイエス様を見ると、あったかくて、優しくて、情け深いお方であることが分かります。そこに父なる神様の真の姿があるのです。

 

私たちは神様の正しく理解する必要があります。そして、私たち自身がもっと神様を心から敬い、愛する者になりたいものです。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマ*** 20-12-17

『しかし、主は真実な方であるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう。・・・どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。』テサロニケ第二3:3,5

12月も後半を迎え、今年も二週間あまりとなりました。一日、一週間の過ぎるのがとても早く感じます。

 

「主は真実な方である」とあります。その通りと思います。主が私たちを見捨てたり、裏切ったりすることは決してありません。今までもそうでしたし、これからもそうです。常に私たちを強め、私たちを悪しき者から守るために力を尽くして下さるのです。

 

後半の祈りは私自身の日々の祈りでもあります。愛と忍耐に欠けるゆえに失敗してしまうことがあります。その度に惨めな思いをします。しかし、そんな弱い自分を主は許し、再び立ち上がる力を与えて下さるのです。主の私に対する愛と忍耐は尽きることがないのです。

 

感謝だな、有難いなと思います。そして、少しでも主に倣うことができるように、「どうか私の心を導いて、神の愛とキリストの忍耐を持たせて下さい」と祈るのです。

 

安息日を迎えます。今週も様々な出来事があったと思います。心が重く沈んでいる方もいらっしゃるかもしれません。主のもとに重荷をおろして下さい。祈りを通して主に近づけば、主は必ずあなたの心を引き上げて下さるはずです。

 

ハッピィ―・サバス!安息日の祝福と平和と癒しが豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤


 

***心のマナ*** 20-12-11

 

『人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない。主がその手を助け支えられるからである。』詩篇3723-24

 

高村光太郎は、「僕の前に道はない。僕の後ろに道ができる」と歌いました。人生の道は自分で切り開いていくものだと考えている人が少なくありません。

 

 

 

確かに人間の側の努力は必要だと思います。しかし、神様が私たちを日々、導いて下さることこそが人生の真相なのです。新共同訳は、「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」と訳しています。

 

 

 

幼きわが子が自分の足で歩き始めた頃を思い出します。親である私たちに両手を預けて、一歩一歩、私たちに付き添われて歩く姿です。きっと神様と私たちの関係も同じなのだと思います。

 

 

 

幼子が自分を導く両親の手をしっかり握っていれば、倒れそうな時に支えてもらうことができます。しかし、もし、その両親の手を振り払ってしまったら、その助けを期待することはできなくなります。「主がその手を助け支えられる」との約束は、神様の導きに従って歩んでいることが前提となるのです。

 

 

 

今週も今日まで主のお支えがあったことを感謝したいと思います。そして、これからも主の導きの御手をしっかりと掴んで歩み続けたいと思います。

 

 

 

安息日を迎えます。一週間のお疲れが癒されますように。主の平和と祝福をお祈り致します。シャローム!

 

西日本教区 稲田 勤

 

 

 


 

***心のマナ*** 20-12-9

 

『主よ、あなたは正しい者を祝福し、盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます。」』詩篇5:12

 

神様の守りについて考えます。コロナウイルスに脅かされている今、毎朝、家族、友人、そして、教会の皆様が守られるように祈ります。いつも以上に力を入れて祈り続ける毎日です。

 

 

 

そして、その祈りに応えて、主は確かに私たちを守って下さっているのです。私たちの周囲はあらゆる危険、災い、そして、誘惑に満ちています。何事もなく一日が終わるということは偶然ではないし、まして当りまえなどでは決してないのです。

 

 

 

ダビデは、「主よ、あなたは・・・盾をもってするように、恵みをもってこれをおおい守られます」と歌っています。彼は敵に囲まれていました。彼を憎み、彼に敵対する者に常に攻撃されていたのです。そのよう中で彼は主の守りを願って祈り、そして、その守りが確かであることを信じたのです。

 

 

 

新改訳聖書は、このみ言葉を、「大盾で囲むように愛で彼を囲まれます」と訳しています。神様がその真実の愛で私たちを囲んで下さると言うのです。嬉しい約束です。

 

 

 

この世は災いと危険に満ちています。しかし、神様は今日もその愛と恵みをもって私たちを囲んで下さるのです。その神様にの確かな守りを信じて、今日も平安に一日を過ごしたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 

 

 


***心のマナ*** 20-12-4

『イエスは、また人々に言われた、「私は世の光である。私に従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、命の光を持つであろう。」』ヨハネ8:12

先日のことです。天神橋の商店街を歩いていると、数名の方々がプラカードを持ち、拡声器を使って訴えておられる姿を見ました。訴えていたことは、「コロナは嘘」と言うことでした。「コロナはデマです。嘘です。陰謀です。PCR検査をやめれば解決します」と繰り返しておられました。

 

日本でもこのような主張をする方がおられるのだなと思いました。コロナが嘘なのかどうかは分かりません。しかし、「嘘」だと信じて何の予防策もしないで感染してお亡くなりなった方がいることは確かなようです。家族はとても後悔していて、今は、マスクをつけるなどの基本的予防はすべきだと訴えていると言います。

 

情報過多の時代です。どこに真実があるかを見分けること、聞き分けることが難しくなっています。誤った情報を鵜呑みにしていると人生が翻弄される可能性があります。最悪の場合は命を失う結果にもなり得るのです。

 

「私に従って来るものは闇のうちを歩くことが無い」とイエス様は言われました。今、多くの人が生き方に迷いを感じています。自信が持てないのです。どこに確かな道があるのか捜し求めているのです。

 

イエス様は、「私は道である」(ヨハネ14:6)とも言われます。それゆえに、イエス様に従う歩みには命と光があるのです。この全てが不確かで、不安定な時代に、「ここに道がある」と告げてくれる確かな存在があるということは、正に福音(良き知らせ)なのではないでしょうか。

 

不安と恐れに覆われて、世はますます暗くなって来ています。その中で、イエス様が確かな人生の案内者となって下さるのです。日々、イエス様に従う道を選びたいと思います。

 

安息日を迎えます。一週間、お疲れ様でした。安息日の平和が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-12-1

『「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない」とあなたをあわれまれる主は言われる。』イザヤ54:1

人間の思いや感情は変わりやすく、不安定なところがあります。ところが、神様の私達に対する愛と約束は決して変わることはないのです。

 

自然界に身を置くとなぜか心が安らぎます。そのような経験がないでしょうか。何故だろうと考えてみました。

 

一つは、自然界が創造主である神様と、その神様の愛を啓示しているからでしょう。自然の中で人は知らずの内に創造主である神様に触れているのです。

 

また、自然には変わらない確かさがあるからかもしれません。四季折々の風景など変化もあるのですが、山々などはどっしりと変わらずのそこにあり続けます。その安定感が安心をもたらすのかもしれないと思いました。

 

「山は移り、丘は動いても」とあります。まずは起こり得ないことですが、たとえそれが起こったとしても、「わたしのいつくしみは移ることなく、平安を与えるわたしの約束は動かない」と主は言われるのです。

 

神様の約束は真実です。私たちは弱く、何かあるとすぐに揺れ動いて不安定です。しかし、神様の私たちに対する愛とあわれみと約束は、何事があろうとも変わることはないのです。

 

その確かさの中で、私たちは安心して憩う事ができるのです。今日も決して変わることのない神様の恵みとあわれみの約束の中で平安に過ごしたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-11-13

『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。』ピリピ46

今朝の教区における朝礼拝で与えられたみ言葉です。エレン・ホワイトはこのみ言葉に関して次のように述べています。

 

「主は、『恐れるな。あなたの道に危険はない』とは言われない。・・・神は私たちを罪と悪の世界から取り去るのではなく、私たちを最も安全な場所に導いて下さる。」

 

「しかし、多くのものはイエスの助けを拒み、なおもしっかりと自分の思い煩いの重荷にしがみつくだけである。イエスは悩む者たちのもとに来て、彼らの嘆きを和らげ、彼らの悲しみをいやされる。」

 

「私たちは快活の精神を養う必要がある。・・・人生の明るい面に目を向け、希望を抱き、愛と善行に満ち、常に主にあって喜んでいるべきである。」

 

とても心に響きました。確かに祈って神様の助けを求めながら、一方でしっかりとその重荷にしがみついて決して手放さないでいるところが自分にはあります。

 

神様は、私たちに心配や重荷を引き受け、私たちも最も安全な避難所に導いて下さるのです。希望をもって、明るく、元気に、感謝を忘れずに目の前のことに心を込めたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-11-9

『天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。・・・・神のなされることは皆その時にかなって美し

い。』伝道の書3:111

11月を迎えて、朝夕の冷え込みが冬の到来を感じさせる今日、この頃です。皆様、いかがお過ごしですか?コロナ禍の影響下にあっても季節は巡って来ます。大阪センター前の大川沿いの木々の葉の色が変化し始めています。

 

「自然は神の愛を啓示しています」とエレン・ホワイトは書いています。「輝かしい日の光、地をうるおす雨、また山、丘、海、平原、それらはみな神の愛を物語っている」と言うのです。

 

世の中、気持ちが重くなるような出来事ばかりですが、それでも、日々、太陽が昇り、雨が降り、確実に季節が巡って来ます。身の回りの自然界に目を向けると、愛の神様が全てを司っておられること思い起こすことができるのです。

 

今週はどのような一週間になるのでしょう。どような「時」が訪れるのでしょう。たとえ、どのような「時」を迎えても、全ては愛の神様のご支配の中にあることを忘れないようにしたいものです。

 

神様はいついかなる「時」にも、私たちから離れることなく共にいて下さるのです。そして、私達を最も良き道に導くためにその全能の愛の御手を差し伸べて下さるのです。

西日本教区 稲田 勤

 

 


***心のマナ*** 20-11-4

『私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。」』コリント第二418

私が住んでいる大阪市北区では、いたるところでマンションやアパートの建設が行われています。今まであった建物が壊され、新たな建築物が建てられることによって町並みが変わっているのです。

 

ですから、久し振りに訪れた場所で道に迷うことがあります。目印にしていたお店や建物がなくなっているために分からなくなってしまうのです。

 

人生においても同じことが言えるかもしれません。目に見えるものを頼りにしていると、肝心な道を見失ってしまうかもしれないのです。

 

聖書は、目に見えないものに目を向けるように訴えています。見えるもは変化します。廃れて、やがてなくなっていくのです。しかし、見えないものは「永遠に続く」のです。

 

聖書は、目には見えない世界について語っています。そして、「私が道である」(ヨハネ146)と言われるイエス様を教えてくれるのです。

 

人生の道に迷うことがないように、聖書のみ言葉に目を向けたいと思います。

西日本教区 稲田 勤

 

 


***心のマナ***20-10-24

『その子の父親はすぐに叫んで言った、「信じます。不信仰な私を、お助け下さい。」』マルコ924

今週はどのような一週間だったでしょうか。色々な出来事、また、経験があったと思います。なかなか解決の糸口が見えない問題に直面することがあったかもしれません。

 

今朝の聖句に出て来る父親は、息子のことで困り果てていました。幼い頃から度々霊に取りつかれて倒れてしまうのです。

万策尽きて行き詰まっていた父親は、息子を連れてイエス様のところにやってくるのです。

 

興味深いのは、イエス様との対話の中で父親の嘆願が変化していくところです。最初は、「息子を憐れんで下さい」と訴えます。次いで、父親は、「私どもを憐れんで下さい」と訴えるのです。そして、最後には、「不信仰な私をお助け下さい」とすがりつくのです。「息子」の問題が、やがて、「私たち」の問題となり、最終的には「私」の問題になっているのです。

 

「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」。この父親の祈りは、私たちの祈りもが行き着くべきところなのかもしれません。神様は愛であり、全能です。神様の許しなしに訪れる問題や試練はありません。そして、神様はその先の道も備えておられるのです。

 

しかし、私たちはなかなかそれが信じられないのです。また、その時まで待てないのです。この父親と同じ不信仰なのです。でも、その不信仰な私を主は見捨てずにあわれんで下さる!その約束にすがって「不信仰な私を助けて下さい」と祈れる幸いがあるのだと思います。

 

この後、父親の嘆願は聞かれ、息子は癒されます。今、あなたの心を悩ませていることについても、イエス様は最前の道を備えて下さっています。自らの弱さを受け入れ、「主よ、不信仰な私を助けて下さい」と祈りたいと思います。

 

安息日を迎えます。一週間、お疲れ様でした。安息日の平和と祝福と平和とが豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-10-19

『イエスは彼に目をとめ、いつくしんで・・・。』マルコ1021

この時、イエス様はどのようなまなざしをしていたのだろう・・・と考えるのです。「目は口ほどに物を言う」と言います。目つき、眼差しは、言葉と同等、あるいはそれ以上に相手に喜怒哀楽が伝わるのです。

 

温かい眼差しがある一方で、冷たい眼差しもあります。羨望の目、好奇の目、蔑みの目など人間が見せる眼差しは実に様々です。自分は日頃、妻や子供たちをどのような眼差しで見つめているだろうかと反省させられます。

 

この後、「彼」はイエス様の言葉を聞いて悲しみながら立ち去って行くのです。イエス様の言葉に従い切れない、受け止めきれない弱さは誰もが持っています。でも、イエス様はそのような「彼」に冷たい眼差しを向けることはしないのです。「彼」を見つめるイエス様の眼差しは、どこまでも優しく、温かったのです。もしかすると涙がにじんでいたかもしれません。

 

自分の罪深さ、弱さ、醜さが見える時、私たちは恐れます。不安になります。しかし、そんな「私」を見つめるイエス様の眼差しは愛に満ちていて、優しく、温かいのです。このイエス様の眼差しがあるから、私たちは生きることができるのです。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-10-16

『ところが、主が言われた、「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。・・・なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。」コリント第二129-10

これほど優しくあたたかい言葉があるでしょうか。繰り返し読んでいるとそのあたたかさが心にじわりと広がっていきます。

 

人間、どうしても強がるところがあります。社会が弱さを認めないからです。だから、弱さを隠して強がって生きるしかないのです。それは誰もが続けられることではありません。

 

家庭においてもそうであることがあります。そして、教会の中でさえもその傾向があります。教会でも弱さを隠さないといけないのです。いったいどこで肩の力を抜けば良いのでしょうか。

 

でも、それは本来の教会の姿ではないはずです。教会は、キリストの愛と恵みが満ち溢れる場所であるはずです。キリストの恵みと力は、弱さの中でこそ働くのです。

 

弱さそのものを誇ることではないでしょう。でも、弱さを認めていい、さらけ出していい、それでも受け入れてもらえると言うのは嬉しいことです。しかも、その弱さの内にキリストの恵みと力が完全にあらわれる、と言うのです。

 

「弱い時にこそ強い」。迎える安息日、イエス様の懐でこの恵みを味わいたいと思います。

 

安息日の平和、祝福、そして、癒しが豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-10-12

『御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのためにとりなして下さるからである。」ローマ826

「弱い私たち」とあります。確かに、私たち人間は弱さを抱えています。それも一つではありません。様々な弱さを持っています。

 

その弱さの一つに祈れない弱さがあります。苦しみや悲しみが大きくなると、祈ることさえできなくなるのです。そのような時に、「祈りなさい」と言われることほど辛いことはありません。

 

しかし、たとえ祈れなくても助けがあるのです。聖霊の神様が助けて下さると言うのです。言葉にできない、言葉にならない胸の内にあるうめきを、聖霊は祈りとして天に届けて下さるのです。

 

聖霊は、イエス様によって「助け主」と呼ばれています。聖霊はその呼び名の通り、私たちを慰め、励ますために傍らにいて下さる神様なのです。

 

どんな時にも助け主である聖霊を通してイエス様が共にいて下さること、また、聖霊が心のうちにあるうめきを祈りとして天に届けて下さることを忘れないでいたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-10-07

 

『私の兄弟たちよ。あなたがたが、色々な試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。』ヤコブ12

 

大阪は穏やかな朝でした。でも、台風が接近していますね。日本列島が守られるようにお祈りしたいと思います。

 

聖書は、「試練を喜ぶように」と教えています。でも、実際に試練が訪れた時に喜ぶ人は多くはないと思います。むしろ、悲しみ、不安、苛立ち、怒りを感じる人の方が多いでしょう。しかし、神様が許されることには、全て意味があり、目的があるのです。

 

先日、エレン・ホワイトの次のような言葉に出会いました。『神が私達に障害や迫害や困難の来るのをお許しになるのは、のろいとしてではなく、私たちの生涯の最高の祝福としてです。』

 

試練や困難の最中にあっては、何がどう祝福なのかは分からないと思います。でも、私たちを真実に愛される神様は、私たちに対して最高、最善以外のことをお許しになることはないのです。

 

次の約束は真実です。「私はあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ4110)「主は、『私は、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。」(ヘブル135

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-10-2

 

『私の神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。』ピリピ419

誰かの助けになりたい、力になりたいと思います。しかし、気持があっても実際にはできないことばかりです。そして、自分には弱さと不足しかないなと痛感するのです。

 

人間が持っているものはほんの僅かです。いや、何も無いのです。しかし、神様は全知全能です。神様のもとには全てがあるのです。

 

エレン・ホワイトはこう言っています。「神は、私たちの欠乏を知り、そのために備えておられる。神はご自分の子らのために補給庫を持ち、あらゆる状況において彼らの必要を満たしてくださる。それなのに、私たちはなぜ神に信頼しないのか。」

 

神様に不足はありません。もし、それが私たちにとって必要なものであるならば、神様は必ずその必要に応えて下さるのです。私たちはもっともっと神様を信頼すべきなのです。

 

子どもの話で聞きました。「神様は無限大です。だとしたら、私たちが1なのか、5なのか、10なのかは関係ありません。1+無限大は無限大、10+無限大も無限大です。神様を信頼して、神様とつながることが一番です。」

 

私たちを愛してくださる神様は、私たちの必要を見過ごすことはありません。神様を信頼して、私たちの必要を率直に祈り求めたいと思います。

 

安息日を迎えます。主による平和と祝福が豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤


 

***心のマナ***

 『私は山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。』 詩篇1211-2

 今は、大阪のど真ん中と言える場所に住んでいます。四方をマンションやビルに囲まれた環境の中にいます。

  近くの大川沿いや大阪城周辺には自然が残っていますが、普段は人間が作ったものに囲まれた生活をしています。そのような環境の中にいると、人間、どうしても見える現実の世界が全てになってしまいがちです。目に見えるものを超えた存在を意識する事を忘れてしまうのです。

 

 古の信仰者は、「私は山にむかって目をあげる」と歌いました。全てのもを造り、保っておられるお方に目を向けたのです。私たちにもこの視点が必要です。

 

 イエス様は、「空の鳥」、「野の花」に人々の目を向けさせました。それは、一羽の空の鳥を養い、一厘の野の花の装われる真の神様を見つめてほしかったからです。

 

 「わが助けはどこから来るだろうか」と詩人は問います。しかし、山に向かって目をあげた時、すでにもうその答えは得ていたのです。

 

 「わが助けは、天と地とを造られた主から来る。」このことを知るとき、困難に直面しても負けない力、倒れていても起き上がる力を得ることができるのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 


***心のマナ*** 20-9-25

『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。』コロサイ323

 

カトリックのシスターであり、教育者でもあった渡辺和子さんは、エッセイの中でアメリカでの修道院における経験についてこのようなことを書いています。

 

期待して臨んだ修行生活が、掃除、洗濯、草取りなどの雑用ばかりだったので、最初の高い志が萎え始めていた時、指導員から、「あなたは食堂でお皿を並べながら何を考えていますか」と聞かれたと言うのです。渡辺さんは言われた通りにお皿を並べているだけで何も考えていませんでした。

 

指導員はそんな彼女に、「そこに座る人が幸せになるように心を込めて置いてご覧なさい」と言われたそうです。その日の経験を振り返って渡辺さんは、「この世に、『雑用』という『用』はありません。仕事を雑にしたときに、雑用となるのです。有意義な仕事にするか、雑用にするかは、自分の心の持ち方次第なのです」と記しています。

 

考えさせられる言葉です。聖書も、「何をするにも、主に対するように心から働きなさい」と勧めています。私たちは、実は、「人」に対して仕えることを通して、「主」に対して、イエス様に対して仕えているのです。

 

家族に対しても、職場の同僚に対しても、また、教会の兄弟姉妹に対しても、誰に対しても、何をするにも、何を話すにも、「主」に対してするように、心を込めて行いたいと思います。

 

安息日を迎えます。一週間、お疲れ様でした。安息日の祝福、平和、そして、癒しが豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-9-23

 

『人の心には多くの計画がある。しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ。』箴言19:21

先週の土曜日、安息日の奉仕のために朝早く車で出発しました。連休中ということもあり、かなり余裕を持って出発しました。ところが予想以上の事が起りました。

 

事故です。車は高速道路上で完全に止まってしまいました。待つこと一時間半。全く動きませんでした。あせり、怒り、あきらめと気持ちは変わっていきました。

 

そして、静まって車中で聖書を開くと今朝のみ言葉がスッと入ってきました。人間の計画、人間の予定は妨げられたり、頓挫したり、うまくいかないことがあります。しかし、神様の計画があって、それは確実に進行していることを教えられました。

 

その時の自分の場合、大切なのは目的地がはっきりしているかということと、道を間違えていないかということでした。両者とも大丈夫でした。

 

だとしたら、進むスピードは大きな問題ではありません。たとえ全く動かなくても、亀が歩くようなゆっくりとした速度でも、それが許されている中の最善であるならば焦ったり、ジタバタする必要は無いのです。

 

今日も私たちの思いや予定を超えた神様のご計画の中に生かされていることを忘れずに、焦らず、あわてず、イライラせずに主の導きに全てを委ねて最善を尽くしたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-9-21

 

『だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。』コリント第二516

 

シルバーウイークも後半に入りました。巷では多くの人がGo to トラベルキャンペーンを利用して旅行に行っているようです。お盆に帰省できなかった分、この連休で里帰りしている人も多いようです。皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 

今日は敬老の日です。例年のような祝い方はできないかもしれませんが、人生と信仰の先輩である皆様方に感謝と敬意を表したいと思います。

 

年齢を重ねる経験は、何かを失っていく寂しいものと思われがちです。確かに若さや体力などが衰えて行くのは事実でしょう。私も50を超えて色々なところに支障が出て来ました。特に今年に入ってから左ひざの痛みが続いて歩くのも一苦労の時期がありました。病院で検査をして頂きますと、「老化現象でしょう」と言われました。今は痛みが治まり、体が自由に痛みなく動かせることは感謝だなと感じています。

 

聖書に目を向けると、失うだけでない他の面があることが分かって来ます。「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」と言うのです。白髪が増える。老眼で視力が落ちる。足腰も弱る。これは避けがたい仕方のないことです。しかし、外側はそうでも内側は違うのです。

 

キリストにあって、内なる自分は日ごとに新しくされていくのです。クリスチャン経験は日ごと、年ごとに廃れてくたびれて行くようなものではないのです。今日よりも明日、明日よりも次の日の方が、より生き生きとした喜びに溢れて行く経験なのです。

 

今日、皆様お一人おひとりが、この「内なる人は日ごとに新しくされる」恵みを味わうことができますように!

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ*** 20-9-18

『主よ、私は深い穴からみ名を呼びました。あなたはわが声を聞かれました。「わが嘆きと叫びに耳をふさがないでください」。私があなたに呼ばわったとき、あなたは近寄って、「恐れるな」と言われました』哀歌35557

 

今週は配信が滞ってしまい申し訳ありませんでした。新しい首相が誕生して、今後、この国はどのような方向に進み行くのでしょうか。現実は不安な事ばかりです。

 

個人の生活においてもそうです。深い穴に落ち込むような経験をすることがあります。しかし、有難いことに、神様は私たちの嘆き、祈り、つぶやきを聞いて下さるお方です。

 

私たちは聞くことが苦手です。自分はどれくらい妻や子どもたちの心の声に耳を傾けているだろうかと考えます。情けない話ですが、全くと言ってよいほどできていない自分がいます。聞くよりは、自分の言いたいことを話してばかりいるのです。

 

イエス様は聞いて下さるお方です。傍らに来て、いつまでも耳を傾けて下さるのです。祈っていると、それが分かって来ます。嘆きとつぶやきと不満の繰り返しのような祈りを、主は黙っていつまでも聞いて下さっているのです。

 

そして、最後には、「心配しなくていい。恐れなくていい。私はあなたのためにここにいるのだから」と言って下さるのです。

 

一週間お疲れ様でした。安息日の主による癒し、平和、祝福が豊かにありますように!

 

 

西日本教区 稲田 勤


***心のマナ***  20911

『彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。』       マタイ1220

 

一週間の過ぎるのがとてもはやく感じます。一日一日があっと言う間です。また、色々な出来事に会います。うまくいかないことが多いと心挫けそうになります。そのような時、自分の弱さをひしひしと感じるのです。

 

しかし、イエス様は、その人の弱さを受け止めて下さるお方です。「いためられた葦」、「煙っている燈心」ほど弱々しく、頼りない存在はないでしょう。今にも倒れそうな、今にも消えてなくなりそうなものを、イエス様は、「折ることなく」、「消すことなく」、支えて下さると言うのです。

 

「弱い時にこそ強い」(コリント第二1210)というパウロの言葉が心に響きます。この世では弱さは嫌悪され、否定されることの方が多いでしょう。しかし、聖書は、弱さが肯定され、弱さが誇れる信仰の世界を教えているのです。その根拠はイエス様にあります。イエス様のお陰で、弱い私達が強くなれるのです。

 

一週間お疲れ様でした。安息日の主による癒し、平和、祝福が豊かにありますように!

 西日本教区 稲田 勤


 

***心のマナ***  2097

 

『私たちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。』 コリント第二48-9

 

 大型の台風10号は九州北部を抜けつつあります。日本に近づく頃に少し勢力が弱まったので、神様が祈りを聞いて下さったと感謝しました。それでも大型の台風には変わりありません。まだ大きな被害の報道はありませんが、今後も被害が大きくならないように祈ります。

 

 最近、読んだ冊子で次のような詩の一節に出会いました。「決して敵に背を向けず、胸を張って前進した者、暗雲が晴れるのを決して疑わず、たとえ正義が敗れるとも、悪が勝ちを収めるなどと夢想だにしなかった者、倒れるは起き上がるため、挫折するはよりよく戦うため、眠るは目覚めるためと確信した者、・・・」(ロバート・ブラウニング)

 

ブラウニングは教会に通う信者ではなかったようですが、真実の信仰を求めてやまない人であったようです。ゆえに彼の詩にはキリスト教信仰が思想が織り込まれているのです。彼が詩につづった者とは、正に真の信仰者の姿なのではないでしょうか。パウロも言っているように、私たちは弱く、脆いのですが、キリストにあって、「四方から患難を受けても窮しない、途方にくれても行き詰まらない、倒されても滅びない」強さを持っているのです。

 

 弱くていいのです。実際、弱いのです。挫けても、倒れても良いのです。途方にくれることもあります。それでも、私たちはキリストの全能の愛の御手のうちに支えられているのです。それゆえに、再び立ち上がるのです。前に進むのです。

 

 倒れたまま、挫けたまま、行き詰まったまま終わることはないのです!

 

 西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  2094

 『静まって、私こそ神であることを知れ。』詩篇46:10

 

 今週は二度も連続で配信をスキップしてしまいました。申し訳ありません。皆様、お変わりありませんか?

 危険な台風10号の接近が連日報道されています。想定外の勢力で甚大な被害が出る可能性があるとのこと。神様が勢力を弱めてくださって、被害無く通り過ぎるように皆でお祈りしましょう。

  さて、私たちの周囲は雑多な人工音で溢れています。また、最近はワイヤレスのイヤフォンをつけて四六時中音楽を聞いている人が増えているような気がします。

 ある問題行動を繰り返す若者の更正施設で働く人の話を聞いたことがあります。彼らはテレビ、音楽などをいつも聞いているので沈黙に耐えられないのだそうです。そこで、入所したら毎日、黙祷の訓練をさせると言うのです。

 そして、時間をかけて、月日をかけて三分黙祷ができるようになると、自然と彼らの生活も落ち着いて来ると言うのです。興味深いお話でした。

 人間は静まり必要があるのです。神様の声を聞くためです。人工音や音楽は、決して神様の語りかけの代わりはなりません。

 

 安息日を迎えます。世の中の喧騒の声や人工音には耳をふさいで、また、心のおしゃべりをやめて、神様の前に静まりたいと思います。そうすれば、必ず聞こえてきます。あなたに語りかけている神様のみ声が!

 

 安息日の祝福と平和が豊かに訪れますように!

 西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20-8-28

 

 『イエスは言われた、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と書いてある。』

マタイ4:4

 聖書は二つの誕生について教えています。肉の誕生と霊の誕生です。誰もが既に肉の誕生は経験しています。母親の胎内で育まれ、時満ちてこの世の誕生するのが肉の誕生です。

 赤ちゃんは10ヶ月ほど母親の胎内で過ごしてから生まれてきます。そして誕生した瞬間から始まる二つのことがあります。それは食事と呼吸です。母の胎内ではへその緒で結ばれていて、呼吸も口から栄養を取ることもしません。しかし、誕生後は違います。

 

イエス・キリストにあって新生(水と霊とによって新しく生まれる)する霊の誕生も同じです。イエス様を信じる信仰の言い表しによってバプテスマを受けて水から上がって来る時、自分で食事をとり、呼吸をすることが始まるのです。

 

食事は神様のみ言葉です。呼吸は祈りです。これを怠ると命は死んでいきます。肉の命はサインがすぐに出ます。お腹がグーッとなったり、息を止めると苦しくなるのです。霊の命は目立ったサインは出ません。

 

 しっかりと食事をとっているでしょうか。人はパンだけでなく、神の口から出る言で生きるものなのです。エレミヤのように、「私はみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、私に喜びとなり、心の楽しみとなりました」(エレミヤ15:16)と言える経験をしたいものです。

 

安息日を迎えます。一週間お疲れ様でした。主による癒し、平和、祝福が豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田勤

 

 

 


 

***心のマナ***  20-8-26

 

『悩みの日に私を呼べ。私はあなたを助け、あなたは私をあがめるであろう。』詩篇50:15

 

昨日より息子が体調を崩して寝込んでいる。夜中、目を覚ました時に様子を見に行った。額に手を当てる。熱が下がっているようで安堵した。病気になると心細くなるものだ。息子を見つめながら、ふと、二十歳の頃、ブラジルで人生はじめて入院をした時の事を思い出した。ナースステーションから一番遠い部屋に一人きりだった。寂しく不安だった。言葉も分からない。手元にあるナースコールのボタンだけが頼りだった。

 

「悩みの日に私を呼べ」と神様は言われます。祈りは手元にあるナースコールのボタンのようなものかもしれません。何かの時には助けを求めることができるのです。もちろん、困った時だけでなく、日頃から祈りを通して神様と結ばれているべきなのですが・・・。

 思い返すと、入院中、一度もナースコールを押すことはありませんでした。呼ばなくても看護師さんの方が気にかけて何度も様子を見に来てくれたのです。

 

 神様もそうなのでしょう。私たちが呼ぶ前に、私たちの傍らに来て下さっているのです。そして、その全能の御手で支えて下さるのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20824

 

『そして、行って、場所の用意ができたらなば、また来て、あなたがたを私のところに迎えよう。私のおる所にあなたがたもおらせるためである。』ヨハネ14:3

 

芸人の漫談の中に、「世のお父さんにとっては、落ち着く場所は家でも職場でもトイレだけ」という笑い話があります。もし、これが本当だとしたら悲しすぎます。

 

大人も子どもも皆、居場所を必要としています。心落ち着き、ホッとできる場所がないと人は生きていけないのです。仲間はずれやいじめを苦にして自ら命を絶ってしまう子どもがいます。ご両親の心の痛みはいかほどでしょうか。

 

ある方が、自分の居場所を三箇所以上持つことを奨励していました。その基本になるのは家庭です。そして、二つ目は子どもにとっては学校、大人にとっては職場となるのでしょうか。でも、この二つ目は心安らぐ場所とは思えない時もあります。もし、家庭でも居場所がなければ行き場を失います。そこで、更にもう一つ、何かの時に逃げ込める場所を持つことができれば・・・と言うのです。そう考える時、教会があることは恵みだなと思います。教会において、信仰を同じくする同胞の内に、そして、何より神様の懐の内に自分の居場所を見出すことができるからです。

 

イエス様は、今、天上にて私たちの居場所を準備して下さっています。それだけではありません。イエス様ご自身が私たちの居場所なのです。イエス様は誰も拒むことなく、いつでも受入れて下さいます。「私のもとに来なさい」との招きは、全ての人に対する招きなのです。

 

今日もイエス様の懐の温かさに触れてから一日を始めたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20-8-21

『油断することなく、あなたの心を守れ。命の泉は、これから流れ出るからである。』箴言4:23

 

 

心は命の泉だと聖書は言っています。言葉も行動も、心の内にある思いから湧き出したものなのです。よく失言を、「心にも無いことを言ってしまって」と言い訳しますが、それは有り得ないということになります。

 

私たちは心を守らないとけません。心と思いは、その人が見るもの、聞くものによって養われます。ですから、何を見るか、何を読むか、何を聞くかをよく考えないといけません。

 

 人間の心には、生まれながらの肉の思いがあります。肉の思いのままに生きると、人は堕落の一途をたどることになるでしょう。それにブレーキをかけて、思いを神様に引き寄せて下さるのが聖霊です。

 その聖霊によるブレーキを拒み続けると、思いのままに、「なすべからざる事をなすに任せる」(ローマ1:28)状態になります。これは恐ろしいことです。

 

 心を守るということは、「心の腰に帯を締める」(ペテロ第一1:13)ことでもあります。浴衣を着る時、帯がなかったらだらしない状態になります。帯をしっかり締めることではじめて装いが整うのです。同様に、心にも帯を締めないと人間はだらしなくなってしまいます。心の腰に帯をしめて、心を自由に活動させないで、思いのままにしないで抑制するのです。

 

 安息日を迎えます。安息日は自分の心を点検し、帯を締めなおす時でもあります。神様は創造の力をもって、私たちの内に清い、正しい心を再創造して下さいます。

 

 安息日の平和と祝福が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20-8-19

 

『また、神の力強い活動によって働く力が、私たち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。』エペソ1:19

 

パウロは、ここで皆の心の目が開かれて、神様のことがよりはっきりと分かるようにと祈っています。具体的には、「神の力強い活動によって働く力」が、「いかに絶大なものであるか」が分かるようにと祈っているのです。

 私たちは、神様の力をどの程度に捉えているでしょうか。ともすると、理性的に、また科学的に物事を考えてしまって、神様の全能の絶大な力を自ら制限してしまっているところがあるかもしれません。

 

 幼い頃、父の存在は絶大でした。台湾の宣教師時代、留守が多い父でしたが、台風襲来の時は家にいてくれました。暴風に備えて窓に板を釘付けている父の姿を覚えています。「父がいれば何があっても大丈夫」と幼心に感じたものです。

 天の父なる神様はそれとは比較にならない力と権威の持ち主です。無から有を生み出す創造の力は全能です。

 

サタンに代表される悪の勢力に対しても、時に猛威をふるう自然界に対しても、健康を破壊し、命を奪う病に対しても、人間が全くの無力である罪や死に対してさえも、神様はそれは支配し、コントロールする権威と力をお持ちなのです。

 

 何を恐れていますか?何が不安にさせていますか?どのような問題で悩んでいますか?神様がいれば何も恐れる必要はありません。全能の愛の主が常に最善をなして下さるのですから...

 

 今日、私たちの目が開かれて、全知全能の愛の主を認めることができますように!そして、その神様に信頼して全てを委ねることで平安を得ることができますように!

 

 西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20-8-17

 

『いつも、塩で味付けられたやさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、分かるであろう。』

                                                                                                                          コロサイ4:6

 

「『どのように言うか』ということは、『何を言うか』ということと同じくらい大切です」と今週のガイド(教会で用いている聖書研究のための季刊誌)に書かれていました。確かに同じ内容でも、言い方によって大きく変わると思います。

 

 人間、否定的に言われるようりは、肯定的に言われた方が受け入れやすいものです。ほめ言葉や、共感を示す言葉、励ましの言葉は人を活かすことになるのです。しかし、これがなかなか難しいのです。特に関係が近くなればなるほど難しいのです。友人や他の人ならまだ良いのです。しかし、夫婦関係や親子関係になるとそうはいきません。一説によると、親が子に語る言葉の八割は否定的な言葉だと言います。

 

 「塩で味付けた優しい言葉を使いなさい」と聖書は教えています。料理をするのに塩は欠かせません。また、塩は加減が大切です。多過ぎたら塩辛くなり、少ないと味気なくなります。きっとほめ言葉も加減が大事なのでしょう。

 

 何より、自分自身が毎日、神様の愛に基ずく肯定的な言葉を一つでも多く受けることが必要です。そうすることで、自分も他者に対して益となる言葉を語ることができるようになるのです。

 

今日、家族や職場の人に、「美味しい」と思ってもらえる言葉を語りたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20.8.15

 

『イエスがなお先に進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「私たちと一緒にお泊り下さい。もう夕暮れになっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家に入られた。 』ルカ24:2829

 

イエス様の十字架の死後、失意落胆した二人の弟子がエマオに向かっていました。その二人に復活されたイエス様がそっと近づき歩みを共にされるのです。

 

 私はこの場面、この物語が大好きです。イエス様は常に私たちに寄り添い、歩みを共にして励まし、助けようとして下さっていることがひしひしと伝わってくるからです。

 目的地に着いた時、イエス様はなお先に行こうとされます。二人はイエス様を引き止めます。彼らの願いを受け入れて、イエス様は共に宿るために残られるのです。

 

 時は夕暮れです。間もなくサンセットを迎えます。この一週間はどのような毎日だったでしょうか。嬉しいこと、感謝なこと、幸せなことがいっぱいあったでしょうか。悲しい事、辛いこと、苦しい事が多くて心が重く感じているでしょうか。

 

 主は今、あなたに近寄って下さっています。そして、迎える安息日を共に過ごすべく宿ろうとして下さっているのです。

 

 今週、忙しさや、失意や、自分の思いでいっぱいで寄り添おうとするイエス様を見過ごしていたかもしれません。安息日を迎える今、主を先に行かせず我が内に迎えたいと思います。安息日の祝福と平和が主のご臨在と共に豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20..813

 

『神は、神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている。 ローマ8:28

 

今朝は、早くから出かけてある教会で聖書研究をして先ほど帰って来ました。朝のうちに配信できなくてすみませんでした。

 今週の金曜日も都合で朝の時間に配信はできないと思います。サンセット前にはみ言葉をお届けできると思います。

 

人生、自分の思い通りになりません。当然のことなのですが、実際に目の前のことが自分の願うように進まなくなると不安になります。何とかしようともがけばもがくほどややこしくなってしまうから堪りませんよね。

 

聖書は、神様の働き、そして、摂理による導きについて教えています。一人ひとりの人生を最初から最後までを見通しておられる神様が、常に最善へと導いて下さると言うのです。

 

目の前で起っている経験が望まない状況であればあるほど、この神様の摂理の導きが見えなくなってしまうものです。でも、自分には見えていないことが、神様には見えているのです。

 

 今は苦しいかもしれません。理解できないかもしれません。受け止められないかもしれません。しかし、神様は確かに「万事が益」となるように働いて下さっているのです。

 

 今の辛い時、暗い時を、感謝をもって振り返る時が必ず来ます。また、そのような時こそ、主は傍らにいて支えて下さっているのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 

 


 

***心のマナ*** 20.8.10

 

 『しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、私たちを慰めて下さった。 コリント第二7:6

 

この言葉は書いたパウロは信仰の人、勇気の人でした。そんなパウロも力を落として沈む時があったのです。そのような時に、テトスが訪ねて来てくれて、彼を通して慰めと励ましを受けたと言うのです。それは、「うちしおれている者を慰める神」の計らいだったと言うのです。確かに、気落ちしている時、打ちひしがれている時に、予期せぬ訪問や出会いを通して慰めや励ましを受けることがあります。今はコロナウイルスの影響で、人と会ったり、人を訪ねたりを控えざるを得ない状況です。しかし、手紙や電話、メールは何の妨げもありません。先日、ある方からメールが届きました。久し振りに頂いたメールでした。本人は何も意識していないと思います。でも、そのメールによって私は大いに励まされ、力づけられたのです。

 

神様は人を用いられるのです。人を用いて励まし、助け、力づけて下さるのです。神様は、うちしおれている者を見過ごすことができないのです。そこで、神様は人を用いてあなたに寄り添い、励まして下さるのです。

 

この心のマナの配信が誰かの励ましになっていれば幸いです。また、神様は今日、あなたを用いて誰かを励まそうとしているかもしれません。祈りの中で思いに残る人、何か気になる人がいたら電話なり、メールなり送ってみて下さい。あなたを通して主の慰めと励ましを受ける方がいると思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20.8.

 

『すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 マタイ25:15

 

これはイエス様が語られた「タラントのたとえ」の一節です。主人が旅に出る前に僕たちにその能力に応じて財産を預けたと言うのです。この譬えが意味していることは明らかです。神様は一人一人の能力に応じて何か才能なり、特性なりを与えておられると言うことです。そして、それを何のために、どのように用いるかを問われると言うのです。

 自分の人生は自分のもの。だから、自分のしたいように生きる。そう考える人がいます。もっともらしく思えますが、聖書を見るとそれが誤りである事が分かります。

 命も人生も才能もありとあらゆるものが、実は神様からの預かりものなのです。ですから自分がしたいようにではなく、神様が望まれるように、神様が喜ばれるように用いることが一番幸せなことになるのです。

 人と比較して無いもの、足りないものを嘆いたり、不平を言ったり、あきらめたりするのではなく、今、あるものを神様から託された大切なものとして感謝する。そして、神様のため、人のためにそれを用いる時にタラントは増えていくのです。

 また、神様は世の中のように結果だけで評価されません。そうではなく忠実さ、誠実さをこそ評価されるのです。譬えの中の忠実な僕のように、誠実に生きる者でありたいと思います。

 

 一週間お疲れ様でした。安息日を迎えます。主にある平和が豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 

 

 


 

***心のマナ*** 20.8.5

 

『あなたたの荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えられる。 詩篇55:22

 

出張で出かける機会が多いのですが(今年はコロナで激減しています)、できるだけ荷物を少なくすることを心がけています。あれもこれもと詰め込みますと結構な量になり、重たい荷物を持ち歩いているだけで疲れてしまします。

 人生の旅も同じだと思います。持ち物をもっとシンプルにして身軽になれたらと思うのです。あれも必要、これも必要と背負い込んで、それで身動きできなくなってしまっては意味がありません。

 また、人生には避けられない重荷があります。仕事、勉強、子育て、介護などの様々な重荷を負わなければなりません。時にそれがあまりに重く感じて、心折れそうになる時があるのではないでしょうか。

 神様は、「その重荷を私にまかせなさい」と言って下さっています。人生の重荷は自分一人で負わなければならないのではありません。主が共に負って下さるのです。

 重たい荷物を抱えていた時に、誰かが手を貸してくれたり、代わりに持ってくれたりすることを想像してみて下さい。こんなに嬉しく、有り難いことはありません。

 全知全能の愛の神様が、「私にその荷をゆだねなさい。私があなたを支える」と約束して下さっています。今、あなたの心を重くしている何かがあったら、祈りを通してそれを主にゆだねましょう。

 

 主はそれを引き受け、あなたを支えてくださいます!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20.8.3

 

『あなたがたは急いで出るに及ばない。また、飛んで行くにも及ばない。主はあなたがたの前を行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。 イザヤ52:12

 

人生を急ぎすぎていないでしょうか。どこに向かっているかも分からずに、ただただ急かされるままに先を急いでいないでしょうか。

 私たちの人生に計画を持って導かれる主がいることを忘れてはいけません。主は私たちの前にいて、行くべき道に先導して下さいます。それだけでなく、後ろにも控えて私たちが置き去りにされないように守って下さるのです。

 「しんがり」とはもともと軍隊用語です。戦場から撤退する際、軍隊のしんがりは敵の追手から仲間を守る重要な役割を担います。それがしんがりです。

 エジプトの奴隷生活から解放され、紅海を渡り、荒野の通ってカナンの地を目指すイスラエルの歩みは、キリストにあって罪の奴隷から解放されて、バプテスマを受けて、この世の荒野を通って天のふるさとを目指すアドベンチストの歩みそのものです。エジプトを出た後、紅海を前にしてイスラエルの民はエジプト軍の追跡を受けました。同様に、罪を離れてキリストにあって生きようとする時、罪は再びその人を捕らえようと追って来るのです。しかし、主がしんがりとなって守って下さるのです。

 天国を目指すこの世の歩みを、主は先頭に立って導いて下さいます。それだけでなく、だれも置き去りにされないように、また、背後からその歩みを妨げようと追って来るサタンの働きから守るために、主はしんがりにもなって下さるのです。

 急がず、あせららず、主の導きに従って天のふるさとを目指したいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20.7.31

 

『神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起こしなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。 』ヘブル13:7

 

 今週、尊敬していた一人の牧者が眠りにつきました。穏やかな先生で、笑顔をたやさず、後輩牧師を心にかけて下さる優しい先生でした。

 人間、いつかは死の時を迎えます。その時に残るものはいったい何でしょうか。財産、名誉、功績でしょうか。そうではありません。確かに、これらのものも残りますが、決して最も重要なものではありません。

 聖書は、いつまでも残るものは「信仰と希望と愛」の三つだと教えています。何を信じて、何に望みをおいて、何を愛して生きて来たのか・・・。その生き様こそが最後に残るものなのです。

 迎える安息日、神様の前で静まり、謙虚に自分の生き方を振り返ってみたいと思います。現在の自分の生き方は果たしてどうなのか・・・と。

 安息日の恵みと平和が豊かに訪れますように!

 

 西日本教区 稲田 勤

 

 

 


 

***心のマナ***  20.7.29

 

『見よ、今でも私の証人は天にある。私のために保証してくれる者は高い所にある。私の友は私をあざける。しかし私の目は神に向かって涙を注ぐ。 』ヨブ16:1920

 

お金を借りるのにも、居住の賃貸契約をするにも保証人が必要です。また、身柄を拘束されて保釈される時にも身元引受の保証人が必要になります。そして、保証人はその人が何か損害を与えた際の弁済を肩代わりしなければならないのです。

 

ヨブは理不尽な苦難を連続して経験しました。神様に対して忠実に生きてきたのに、災いが次々と身の上に起こったためヨブは混乱します。更に、妻にも友人にも責められ深い孤独感に陥るのです。今朝のみ言葉はそのような背景の中でヨブが語った言葉です。「私の保証人は天にある!」力強いことばです。ヨブが言うように、私たちの保証人は天におられます。全知全能の神、イエス・キリストこそが私たちの保証人なのです。

 

自分を擁護してくれると思っていた妻に背を向けられ、自分を励ましてくれると思っていた友にまで責められた時、ヨブはどれほど深く傷ついたことでしょう。しかし、ヨブは涙を流しながらも目を天に向けるのです。

 

聖書は、人の助けがいかに空しいかを教えています。そもそも人間は弱く、無力です。医師がいても、弁護士がいても、牧師がいても、誰がいてもどうにもならないことがあります。

 

しかし、私たちにはイエス・キリストがおられます。イエス様は今も生きておられる私たちの保証人です。この方が私たちを見捨てることは決してありません。必ず必要な助けと導きを与えて下さるのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20.7.27

 

『そこでペテロは口を開いていった、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受け入れて下さることが、本当によくわかってきました」。 使徒行伝10:3435

 

米国で起った白人警官による暴行で黒人男性が死亡した事件は、全米各地のデモ行進に発展しました。人種差別という米国の闇は根深く、解決の糸口が見えません。

 相模原で起った障害者施設での殺傷事件は衝撃的でした。背景には、障害者に対する偏見と差別があると言われています。

 今朝の報道で、この事件の翌日に、自らが経営する施設の道路側の壁を壊して、社会と市民との間に壁を作らない施設運営を試みている方のことが紹介されていました。目に見える壁が、目に見えない差別と偏見の壁を助長すると考えたのです。

 建物のバリアフリー化が進んでいますが、それ以上に大切なのは心をバリアフリーにすることです。私たちの心の内にも見えない壁があって、自分でも気づかないうちに誰かとの間に隔てを作っているかもしれません。

 神様は人を分け隔てしません。神様の愛は全ての壁と差別を取り除くのです。ペテロは異邦人に対して偏見がありました。しかし、聖霊の働きの中で、それが誤りであることに気づかされていくのです。

 今日、分け隔てをしないキリストの真実の愛に生かされている者として、聖霊なる神様によって心をバリアフリーにして頂きましょう。

 

 西日本教区 稲田 勤

 


***心のマナ*** 20.7.25

 

『シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願ってゆるされた。しかし、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。 ルカ22:3132

 

シモンとはペテロのことです。この後、ペテロは、預言された通りに、イエス様を口汚く三度も否定して信仰の挫折を経験することになります。人間は、かくも弱く、脆い存在なのです。

しかし、イエス様はそんなペテロを決して見捨てることはありませんでした。「私はあなたのために祈った」と主は言われます。何度も繰り返している同じ言葉で申し訳ありませんが、「祈ることは愛すること」です。愛する者は、その愛する人のために祈ります。愛さない者は祈りません。誰かに愛され、祈られている。これは生きる上で大きな力、励ましとなります。

 

ある教会で出会った年配の信徒の方を思い出します。癌を患い、手術のために入院された彼女を見舞いに行った時のことです。彼女は小さな体を屈めてベットの上で祈っていました。そして、「祈っていると、イエス様に祈られていること、また、教会の皆さんに祈られていることが分かって涙が出て来る」と言っておられたことが忘れられません。

祈っていると、祈られていることも分かるのです。私たちは多くの人に祈られています。そして、何より、イエス様に愛され、祈られているのです。「私はあなたのために祈った。」これは全ての人に対する励ましのメッセージなのです。

安息日を迎えます。今週も悲喜こもごも色々あったと思います。しかし、主の愛と祈りに支えられたことを感謝したいと思います。安息日の平和と祝福、そして、恵みと癒しが豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤


 

***心のマナ*** 20.7.22

 

『彼らは驚いていった、「この方はどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。 』マタイ8:27

 

 人生は日々の天候のようなものです。快晴の日ばかりではありません。曇りの日があり、雨の日があり、嵐の日があります。

 弟子たちは、その日、普段の変わらぬ日常を過ごしていました。ところが、イエス様に従って乗り込んだ舟が、突然の嵐によって沈みそうになります。死ぬ思いの中、彼らは眠っているイエス様にすがって助けを求めます。そこでイエス様が嵐に向かって一喝すると嵐は大なぎになったのです。

 

 人生の嵐も突然やってきます。その時、私たちは恐れと不安で動揺します。自分の力ではどうすることもできないからです。しかし、私たちと共におられるお方がいるのです。その方は、「風も海も従わせる」力のあるお方です。

 「恐れるな、私はあなたと共にいる」。(イザヤ43:5) そのお方の約束の言葉です。イエス様は今日も私たちと共におられます。快晴であろうと、曇りであろうと、そして、たとえ嵐であろうとも変ることなくイエス様は私たちと共にいて下さるのです。

 このお方が共におられる!だから、私たちは安心して今日を生きることができるのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 

 

 


 

***心のマナ*** 20.7.20

 

『私は、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が、さいわいである」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。 使徒行伝20:35

 

何のために働くのでしょうか。もちろん自分の生活のためだと思います。しかし、それだけではありません。聖書はそれと同時に、弱い者を助けるため、与えるためでもあると教えています。

 

「受けるよりは与える方がさいわいである」。ここに幸福の原則があります。この言葉は、主イエス様の言葉だとありますが、福音書に、実際にイエス様がこのように言われたという場面は記されていません。しかし、使徒たちの間では忘れ得ぬイエス様の言葉、教えとして刻まれていたのでしょう。

 

人間、物でもお金でも、他からもらった方が得だと思いがちです。そして、実際に受けること、得ること、獲得することに躍起になっています。しかし、聖書は与える方がずっと幸せなのだと教えているのです。

 

これは何も物質的なことだけではありません。私たちはとかく、言葉をかけてくれなかった、親切にしてくれなかった、ほめてくれなかった、ねぎらってくれなかったなど、人からしてもらえなかったことを数えて不満を口にするところがあります。でも、もし自分から声をかけ、親切にして、思いやりを示すならば、きっと大きく変わって来るに違いありません。

 

神様はひとり子であるイエス様は与えて下さいました。それほどまでに私たちを愛して下さったのです。神様は三位一体です。イエス様を与えたということは、自分自身を与えたと言うことです。神様の愛は常に100%を与えるのです。

 

今日、出会う一人一人に対して、「受けるより与えるほうが幸い」という主の言葉を覚えて過ごしたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20.717

 

 

 

『私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。 イザヤ43:4【新改訳】

 

一日、一週間の過ぎる早さを感じます。あっと言う間に金曜日となりました。時間に追われる毎日の中で大切なことを見失うことがないようにしたいと思います。

 

今週の安息日学校聖書研究ガイドの学びで、イエス様の人間の見方について学びました。それは革新的とも言える見方でした。今日の聖句はそのイエス様が人間を見る見方の核心を教えるものです。

 

イエス様の目には、どのような人間も高価で尊く見えたのです。地位も、教育の程度も、性別も、貧富の差も、国籍も何も関係ありませんでした。たとえ重大な犯罪を犯した人間でもあっても、イエス様の目には高価で尊く映ったのです。

 

「私はあなたを愛している」。この一言の中に神様の真実が示されています。私たちは愛されています。神様の愛は無条件の愛です。私たちに愛する価値があるか否かを問うことをしません。むしろ私たちを価値ある者とするために、神様はその真実の愛を豊かに与えて下さるのです。

 

エレン・ホワイトは、「ひとりびとり人間の中に、キリストは無限の可能性を認められた」(教育p80)と記しています。

 

イエス様は、私たち一人びとりの中に、無限の価値と可能性を見て下さっているのです。こんなに嬉しく、励まされることはありません。

 

安息日を迎えます。主の愛の懐で憩いの時を過ごしたいと思います。安息日の平和が豊かにありますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20,7.15

  

『シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。 』ルカ5:5

 

 

全てが徒労に終ったのです。ベテラン漁師のペテロが一晩中働いたのに小魚一匹取れなかったのです。その時の疲労と空しさはどれほどだったでしょう。

 

同様の経験は私たちにも起り得ます。私たちは、やればやっただけのことはきっとあるはず、と信じて生きています。そこで何とか耐え忍んでいるのです。しかし、そうではない時があるのです。自分の努力に見合った成果が得られないどころか、「何もない」という絶望に打ちのめされることがあるのです。

 

どうしたら立ち上がれるでしょう。どうしたら、「もう一度」と思えるでしょう。ペテロは、「お言葉ですから」と言っています。ペテロは、人間の言葉ではなく、主イエス様の言葉によって動かされてもう一度、網を投げたのです。

 

仕事、勉強、子育て、介護、生きることは大変なことです。今回の豪雨災害で、努力して積み上げてきたものが、一晩にして濁流に押し流されてしまった方々の思いはいかほどでしょう。

 

しかし、神様は、「あなたがたの労苦が無駄になることはない」(コリント第一15:58)と約束しておられます。この神様の約束があるから、この神様の言葉だから私たちも「もう一度」と思えるのです。

 

手元にある空の網を見つつも、「もう一度」と言われる主の言葉に励まされて今日も立ち上がらせて頂きたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***  20.7.13

 『あなたがたは明日のことも分からぬ身なのだ。あなたがたの命は、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。 』ヤコブ4:14

 

九州の豪雨災害によって大きな被害が出ています。多くの方がお亡くなりなりました。残されたご家族の悲しみを思う時に心が痛みます。前日に誰が今日が人生最後の日と知っていたでしょうか。

 

聖書が告げる通り、私たちは明日のことが分からぬ身です。それなのに、明日が来る事、一週間後、一月後が訪れる事、来年、十年後があることが当然のような態度で生きていないでしょうか。

 

そのような私たちに対して聖書は、「あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は全て悪である」(ヤコブ4:16)と戒めています。

 

明日が訪れる保障はどこにもありません。私たちは人生に対してもっと謙虚であるべきです。そして、自分の力で生きているのではなく、神様によって生かされていることを感謝をもって自覚するべきなのです。

 

私たちには明日は分かりません。しかし、私たちを生かし、導かれる主は明日も将来もご存知のお方です。ですから、安心して主に全てをゆだねて、生かされている「今日」という日を大切に、丁寧に、そして誠実に生きていきたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20.7.10

 『ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。 』マタイ10:8

 昨晩、豪雨災害やコロナ関連の情報をテレビでチェックしていたら、無償で配管工事を請け負う会社を立ち上げた話が紹介されていました。請求額0円に感動した人がSNSでそれを紹介したところ、多額の寄付金が集ったというお話でした。 

「ただ受けた」ものについて考えてみました。記憶に残っていませんが、生まれたての頃は両親の愛情と世話を受けたはずです。それは記憶に残る年齢になってからもずっと続いています。

 先生や友人から多くを受けました。兄弟や家族からも受けました。また、牧師になってからは教会の方々から多くの恵みを頂いています。本当に感謝です。

 神様からも無償で多くを受けています。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さる」(マタイ5:45)とあります。生きる為に必要な多くのものが無償で与えられています。

 何より、イエス・キリストが与えられました。罪の許し、永遠の命を受けました。ただです。それは人知を超えた神様の高く、深く、広く、強い愛のゆえでした。感謝、感謝です。

 ただ受けているものを考えてみましょう。心のそこから感謝の思いが溢れてくるに違いありません。与える者になりましょう。ただで与えるのです。ただで受けたのですから・・・。

 安息日を迎えます。主にある平和と祝福が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20.7.8

 

『ナタナエルは言った、「どうして私をご存知なのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、私はあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。 』ヨハネ1:48

 

今回の豪雨で被災された方々のために祈ります。どうか主が共にいて下さいますように!

 

さて、ナタナエルは、イエス様が真のメシア(救い主)であるのかどうかを神様が示して下さるように一人静かに祈っていました。その場所がいちじくの木の下だったのです。ナタナエルは、誰も知らないはずのことを告げられて、驚きつつもイエス様が救い主であることを確信したのです。

 

私はこの場面がとても好きです。人知れず祈るナタナエルを、イエス様があたたかく、優しい目で見つめておられたこと思う時に、慰められ、励まされるからです。

 

最近、「まなざし」という一文に出会いました。

 

「小学生のころ、鍵っ子だった私に、『おかえり』と声をかけてくれる近所のおばあちゃんがいた。当時の私は、一輪車の練習に夢中。

 

今日は次の電信柱まで進むぞ」。ピンポーン!

 

「おばあちゃん、あそこまで乗るから見ててね」。

 

おぼつかない私の後ろ姿を見てくれていると思うと、ぐんぐん前に進める気がした。

 

大人になって、ふと思い出すことがある。見守ってくれた、あの優しいまなざしを。

 

何だかジーンと来ました。イエス様は、今日もそのやさしい愛に満ちた眼差しであなたを見つめておられます。何かの時にはさっと手を差し伸べるべく見つめておられるのです。そのまなざしを知る時、私たちも前に進めるのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***20.7.6

 

 『それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。 』ルカ6:48

 

 今年もまた災害が起りました。熊本県では豪雨によって河川が氾濫して大きな被害が出ています。今も九州南部ではこの豪雨が続いています。神様の守りを祈りたいと思います。

 

ニュース映像を見て、イエス様の譬え話を思い出しました。建物の強度はその土台によって決まると言って良いでしょう。譬えの中には、「地を深く掘って土台をすえた」人に対して、「土台無しで土の上に家を建てた」人が語られています。

 

サインズ8月号の今月の言葉で、相田みつお氏の詩が紹介されていました。「花を支える枝、枝を支える幹、幹を支える根、根はみえねんだなぁ。」そうなのです。全体を支える土台は見えないのです。しかし、その見えないところが大切なのです。

 

譬えの中の家は双方ともに立派だったと思います。一見すると何も問題は無いように見えたことでしょう。ところが洪水が押し寄せた時に違いが露になりました。土台の強度、確かさが分かるのは順境の時ではなく逆境の時なのです。

 

自分は何を土台にしているのか、何を支えにしているのかを考えたいと思います。そして、今日、神様と神様の言葉である聖書を自らの支えとして選びたいと思います。それでも弱い私たちは困難や試練の中で倒れることがあるでしょう。でも、み言葉を土台する人は、倒れた自分を支える神様によって再び立ち上がるのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 2020.7.3

 

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、彼らの中に立ち、手とわきとを彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 』ヨハネ20:19-20

 

 

主イエス様を失った弟子たちは、恐れと不安の中で部屋に閉じこもり、身を寄せ合っていました。するとそこに復活された主が現れ、「安かれ」と言われたのです。弟子たちは主を見て喜びました。

 

安息日を迎えます。今日のみ言葉が示す弟子たちの経験は、安息日ごとに招かれている私たちの経験であると思います。

 

明日、礼拝のために教会に行かれる方が多くおられるでしょう。集まる一人一人が携えて来る思いは様々です。喜びと感謝に溢れている人がいる一方で、心に傷を負って、悲しみ、不安、恐れを抱えて、重い心を引きずるように来られる方もおられると思います。

 

しかし、そこで主にお会いするのです。礼拝における讃美、祈り、み言葉の説き明かしを通して今、ここに生きて共におられる主に出会うのです。そして、「私はここにいる。安心しない」とのみ声を聞くのです。

 

 この一週間、様々な出来事があったと思います。嬉しいこと、感謝なこと、また、悲しいこと、辛いこと、苦しいことがあったと思います。自分の内にあるあるがままの思いを携えて礼拝の場に集いたいと思います。行けない方もその場で祈って聖書を開いて見て下さい。

 

 主は今も生きておられます。安息日は特別に主が私たちに近づいて下さる日です。主は必ず出会って下さり、私たちに真の喜びを与えて下さるに違いありません。一週間、お疲れ様でした。安息日の祝福と平和が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 2020.7.1

 

『神はすべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。 』テモテ第一2:4

 

1989年、アルメニアで大きな地震が起こりました。三万人以上の尊い命が失われたのです

 

地震の混乱の中で、ある父親が息子の通う学校に急いで行きました。しかし、そこで父親が目にしたのは、完全に崩れ落ちた校舎でした。他の生徒たちの家族も駆けつけましたが、惨状を見て泣きながら去って行きました。

しかし、この父親はがれきを掘り始めたのです。警備の警官にも帰るように言われましたがあきらめませんでした。一人もくもくと瓦礫を取り除いたのです。その作業は38時間にも及びました。そして、父親はついに瓦礫の下の息子を救い出したのです。この父親は決してあきらめませんでした。愛する息子をあきらめることなどできなかったのです。

 

神様はこの父親以上の強い愛をもって私たちを愛して下さっています。そして、罪の瓦礫の下で滅びるばかりになっている私たちをあきらめることなく探し続けて下さっているのです。

今日の聖書研究ガイドの学びは、その神様の思い、神様の望みの強さが教えられていました。神様は愛するがゆえ、何があとうとも決してあなたをあきらめないのです。

 

この神様の愛の強さを知る時に、「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)との約束が真実であることが分かるのです

 

西日本教区 稲田 勤

 

 


 

***心のマナ*** 2020.6.29

 

『これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 』ヨハネ8:9

 

 

この女性は姦淫の現場を捉えられたのです。言い逃れはできません。モーセの律法では死罪にあたることでした。恥ずかしい姿で人々の前に引きずり出されて譴責されたのです。どんなに惨めで、恐ろしかったことでしょう。

 

ところが、イエス様は静かに地面に何かを書き続けていました。そこには、彼女を責めるために集まって来た人たちの日常に隠されている罪が書かれていました。人々はそれに気が付き、やがて誰もいなくなってしまったのです。

 

 「人を裁くな」(マタイ7:1)とイエス様は言われます。そもそも、私たちには人を裁く資格がありません。神様が私たちに求めておられるのは、「互いに愛し合う」こと、「ゆるし合う」ことです。なぜなら、私たち自身が神様に愛され、赦されているからです。

 

 この女性はイエス様と二人きりになりました。何を言われるのか・・。恐ろしくて顔をあげることができなかったと思います。しかし、彼女が耳にした言葉は、「私もあなたを罰しない。お帰りなさい」という優しい言葉でした。

 

 人は色々言うかもしれません。しかし、重要なのはイエス様と私の二人の関係です。イエス様が何と言われるかです。イエス様は言われます。「私もあなたを罰しない」。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 2020/6/25

『この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。 』マルコ5:27-28

 

この女性は12年間も病のために苦しんでいました。多くの医者にかかり、色々な治療や薬を試みたのです。そのために全財産をつぎ込みました。なのに良くなるどころか、ますます病状は悪化してたのです。

 

彼女にはもう何も残っていませんでした。ところがそんな彼女に一縷の望みが起ります。イエス様のことを聞いたからです。希望の源はいつもイエス様にあります。

 

彼女は群衆にまぎれて後ろからイエス様のみ衣に触れました。正面から近づく勇気はありませんでした。うしろからそっと触れたのです。しかしその時、彼女はいやされたのです。

 

押し合い圧し合いの中です。イエス様に触れた人は彼女一人ではありません。意図無く手を伸ばして触った人もいたでしょう。しかし、自分自身に変化をもたらす触れ方をしたのは彼女だけでした。

 

人間、誰もが人には言えない弱さや醜さや罪を抱えているのではないでしょうか。変わりたい。でも、変れない。そこで苦しんでいるのです。イエス様は、そんな私たちを救い、癒し、造りかえることができるのです。

 

たとえ、とても信仰とは言えない小さな思いであっても、イエス様に、「変わりたい」、「癒されたい」、「許されたい」という思いをもって手を伸ばす時に、主は確かにそれに応えて下さるのです。

 

安息日を迎えます。礼拝における賛美、祈り、そして、み言葉を通してイエス様に触れることでしょう。その時、自分の中に変化が生まれる触れ方をしたいと思います。安息日の恵み、癒し、平和が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20-6-24

 

『そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばに座っておられた。 』

                                                                                                                      ヨハネ4:7

心の破れ、傷、渇き、これはだれもが内に持っているものだと思います。だれがその破れを繕い、傷をいやし、渇きを満たしてくれるのでしょうか。

 その日、イエス様はユダヤの地を去って、ガリラヤに行くご計画でした。旅の途中、サマリヤ地方を通過されたのですが、イエス様はスカルの町の井戸の傍らで休憩されたのです。

 旅の疲れもあったでしょう。しかし、それだけでなくイエス様はこの場所である人を待っていたのでした。五回も結婚生活に失敗した傷を持つ女性でした。それでも、その傷の癒しを求めて他の男性を求めることしかできない女性でした。その女性が人目を避けて水を汲みに来るのをイエス様は待っておられたのです。

 「井戸のそばで」という讃美歌あります。「やさしいほほ笑みをして ずっと待っていた ずっと待っていた イエス様は待っていた」。メロディーと共にこの歌詞を聞くとイエス様の愛が心にしみて来ます。

 イエス様は、弱っている人、傷ついている人、打ちひしがれている人に助けの手を差し伸べるために出会いの場所を用意して待っていて下さいます。あなたの日常の中で、人目を避けるような生活における孤独な一コマにおいて主はあなたに会うために待っておられるのです。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***

 

『わが主よ、どうか、しもべの先においで下さい。私は私の前にいる家畜と子供たちの歩みに合わせて、ゆっくり歩いていき、セイルでわが主と一緒になりましょう。 』創世記33:14

 

先週の金曜日は配信ができずに申し訳ありませんでした。新しい一週間が神様のお導きのもとにあって祝福された日々となりますようにお祈り致します。

 

昨日は父の日でした。私の父が眠りについてから15年になります。宣教師時代、ほとんど家にいなかった父とはいつも距離を感じる関係にありました。しかし、自分自身、年齢を重ねて少しづつ父の思いを理解できるようになって来ました。

 

父はスポーツマンで頑丈な肉体の持ち主でした。家族で出かける時、父はいつもさっさと歩いて前に行ってしまうのです。母が後から懸命に追うように歩いていた姿を思い出します。しかし、晩年は逆でした。体を壊し、杖をついて歩くようになった父を母が振り向いて待つようになったのです。そして歩調を合わせるように二人で歩いていました。

 

人と歩調を合わせるのは簡単ではありません。妻や子に対して、また、教会に皆様に対して自分はどうだったかと振り返り時、自分が先を歩いていたなと反省するのです。

 

ヤコブは主の使いに腿のつがいを撃たれて腰砕けになり、杖無しでは歩けなくなりました。その時、彼の自我も砕かれて最も弱い家畜や子供たちと歩み合わせる思いやりを持つ者に変えられたのです。

 

イエス様は憐れみ深い者です。私たちを置き去りにして先を急ぐようなことはしません。もっと早く歩いてしっかりついて来るようにせかすこともしません。私たち自身の歩みに合わせて導いて下さるのです。

 

イエス様のこの優しさを少しでも持ちたいと願います。そして、妻や子供たち、また、教会の皆様の歩みに合わせて傍らにとどまる者になりたいと思った父の日でした。

 

西日本教区 稲田 勤

 


***心のマナ***

 

『私の心は主によって喜び、私の力は主によって強められた。』サムエル記上2:1

 

喜びを失う時、心が弱る時があります。しかも、大きなことだけでなく、実に些細なことでそうなってしまうのです。人間はつくづく弱い存在だとなと思い知らされます。

 


ハンナという女性がいました。彼女には夫がいましたが、子はいませんでした。しかし、夫のもう一人の妻であるペニンナとの間には子がいました。ハンナは子がいないためにペニンナから悩まされていました。

 


辛く悲しい経験の中で彼女は心を注ぎ出して祈ります。神様はその祈りに応えて下さり、ハンナは子を生むのです。そして、その子を主にささげます。その時の祈りの言葉が今日のみ言葉です。

 


彼女は、「主によって喜び、主によって強められた」と祈っています。私たちは何によって喜んでいるでしょうか。何が私たちの心を強めてくれるでしょうか。主に愛され、赦され、救われていること以上の喜びがあるでしょうか。主が共におられ、主に支えられ、主に導かれていること以上の励ましがあるでしょうか。

 

 

 

今週、どのような経験が待っているか分かりません。しかし、どんなに心弱る時にも、私たちには主にある喜び、主による支えと励ましがあることを忘れないようにしたいと思います。

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***

『人はすべて、聞くに早く。語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。』ヤコブ1:19-20

 

コロナウイルスによる外出自粛生活、ステイホーム期間は思わぬ弊害を生みました。虐待やDVが増えたのです。コロナ離婚という言葉まで誕生しました。、

 

確かに、多くを制限される中で一つ屋根の下で生活しているとストレスは溜まります。この三か月を振り返ると、我が家でも色々ありました。息子たちとの関係もちょっとしたことで思いがすれ違ったり、互いにイライラしたりしてしまうのです。でも、その息子たちも昨日、全寮制の学校に帰って行きました。寂しくなります。

 

今年のサインズ誌の連載に「アンガーマネジメント」をテーマにした記事があります。七月号に、「六秒ルール」なるものが紹介されていました。「怒りの感情のピークは長くても6秒」なのだそうです。この間を上手にやり過ごすことによって落ち着きを取り戻すことができると言うのです。

 

方法はいろいろあるのでしょう。紹介されていたのは、自分を落ち着かせる言葉を何度も言い聞かせることです。「大丈夫、大丈夫」、「落ち着いて、落ち着いて」など自分に合った言葉を選ぶことができます。

 

祈るということは更に有効かもしれません。怒りの思いが込み上げてきた時、静かに、「主よ、この思いを取り去り、心を静めて下さい。み霊によって相応しい思いを抱かせて下さい」と祈ることでその後は大きく変わるのではないでしょうか。

 

愛の章と言われるコリント第一13章には、「愛は寛容であり、愛は情け深い。・・・いらだたない、恨みをいだかない。・・・そして、全てを忍び、全てを信じ。全てを望み、全てに耐える」とありますが、一日の始まりにこれを読んで、神様にこの愛を祈り求めるのも良いと思います。

 

何より、私たち自身がこの真実の愛によって神様から愛され、弱さ醜さを忍んで頂いていることを覚えて感謝したいと思います。

 

今日一日、皆様の心と思いが穏やかに守られますように!そして、ご家庭と職場が主にあって平和でありますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ***

『主よ、私があなたと論じ争う時、あなたは常に正しい。しかしなお、私はあなたの前に、さばきのことを論じてみたい。悪人の道がさかえ、不信実は者がみな繁栄するのはなにゆえですか。』エレミヤ12:1

 

 

横田滋さんがお亡くなりになりました。教会で葬儀が行われたようです。奥様の早紀江さんがめぐみさんが拉致された後に、聖書のヨブ記を読んだことをきっかけにクリスチャンになったことはよく知られています。ご主人は長い年月がかかったようですが、奥様と同じキリスト教信仰を自らも受け入れたのでしょう。お二人はどれだけめぐみさんのために祈ったことでしょう。

 

エレミヤは、あえて神様に、「なにゆえですか?」と問いかけています。人生にはこの「なぜ?」あります。そう問わざるを得ない、問いたくなる出来事が起こるのです。私も半世紀ほどの人生の中で何度かこの「なぜですか?」を経験しました。神様からの回答はありません。あった答えは、「私はあなたを愛している。私はあなたと共にいる」でした。

 

拉致される一月ほど前、めぐみさんはお母さんに、「お母さんはキリストって信じられる?」と尋ねたそうです。「神様はいると思う」との答えに彼女はにっこりして、「私も信じられるような気がする」と返したと言います。めぐみさんも人生の悲劇の中で祈ったことでしょう。今も祈っているに違いありません。反して自分はどれだけ祈ったかと反省します。めぐみさんのみならず拉致被害者の方々のために、その解決のためにもっと祈らなければと思いました。

 

この世においては、「なにゆえですか?」は決してなくなりません。でも、その中にも神様の人知を超えた摂理の導きがあるのです。エレン・ホワイトの次の言葉は大きな励ましになります。「神の導きのみ手を求めて手をさしのべている全ての者にとって、最も落胆している時が、神の助けが一番近い時である。彼らは自分たちの道が一番暗かったところを感謝をもってふりかえるであろう。」(各時代の希望中巻p343

 

出口のないトンネルはありません。どんなに長く暗い道もやがては光輝く出口を迎えるのです。また、その暗闇の中でこそ主は共におられて私たち支え導て下さっているのです。

 

安息日を迎えます。一週間お疲れさまでした。重荷をおろして主の懐で憩いたいと思います。安息日の平和が豊かに訪れますように!

 

西日本教区 稲田 勤

 


 

***心のマナ*** 20/6/10

『私の父の家には、すまいがたくさんある。・・・あなたがたのために場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを私のところに迎えよう。私のおる所にあなたがたをおらせるためである。』ヨハネ14:2-3

 

三月末から現在までの約二ヵ月半、子供たちは全寮制の学校に帰校できずに家で過ごしていました。長女が中学入学と同時に入寮して以来、家族全員がこんなにも長く一緒に過ごしたことはありませんでした。このコロナウイルス禍によるステイホーム期間は、家族が共に過ごせる恵みの時となりました。

 

 それも間もなく終わります。来週には帰校するのです。また離れ離れの生活です。寂しくなります。たとえ休みに戻って来ても全員が揃う期間は短くなることでしょう。

 

 「愛する」と言うことは、「一緒にいたい」と願うことだと思います。それは、相手の存在を喜ぶこと、また、相手を必要とすることだと思います。神様は私たちを愛して下さり、私たちの存在を喜びとして下さっているのです。

 

 今は目に見える存在としてのイエス様とは離れ離れですが、イエス様は天において私たちの帰るホームを用意して下さっています。理由は、「私のおる所にあなたがたもおらせるため」です。イエス様は私たちと一緒にいたいのです。

 

天のホームに帰る時が近づいています。この地における今日という最初で最後の一日を主にあって大切に過ごしたいと思います。主の守りと平和がありますよう!

 

西日本教区 稲田 勤